『門』論4:ラカンの「対象a」とイリュージョン
ラカンによれば人間は想像界と象徴界と現実界に住んでいるといいます。
想像界とはイメージとか意味の世界だという。
象徴界とは言語で構成された無意識の領域であり他者だという。
現実界とは我々が見ることも手を出すことも出来ないせかいだという。
さらに「対象a」という欲望はこれまでに知られていない概念です。
正確に言うと原因ではなく「対象a」は見ることも知ることもできない対象だという。
ラカンの「対象a」とは欲望の対象であり決して満足されることはないものである。
あくまでも欲望の対象であり原因ではないので見たり言語化できません。
しかも「対象a」は想像界と象徴界の中間に存在して小文字の他者の欲望である。
自我は他者の欲望と同一化して取り入れる一方他者の目を気にするのです。
具体的には人間の体面とか人望とか自尊心などが「対象a」ですね。
だからどれだけみたされても満足することのない幻想、イリュージョンといわれるのですね。
人間に元からあった欲求ではなく他者の考えに自由を売り渡しているのです。
実態のない仮想のイリュージョンに踊らされてはならないのです。
この欲望は作られた欲望であり現代では企業により大量に作られていることはよく知られていることです。
真の自由を取り戻そうすればこのようなイリュージョンに迷わないことです。
漱石は『門』で人間の自由とは何なのかを問うと共に、答えています。
人間の幻想、イリュージョンから如何にして自由になるかという問いに答えているのです。
『門』は宗助の参禅が主題です、そこでイリュージョンを捨てるという大きな収穫をえました。
宗助「はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥(はる)かに無力無能な赤子(あかご)であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。」といいます。
宗助は自尊心というイリュージョンを根絶したと実に驚くべき事を語っています。
「無力無能」な自己を認める事なのです。
「無力無能」とはありのまの世界をしることです。
自我は他者であることを認めた瞬間なのです。
自我は大文字の他者「対象A」であることを自覚したのです。
それでは「対象A」とはなにか。
「対象A」を自覚するとは言語化された文化や賞賛、期待、誹謗や中傷から自由になることなのです。
親の過大な期待や躾け非難、体面とか人望とか自尊心から自由になることでした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
夏目漱石の作品からの引用は青空文庫です。