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『夢中問答』第九話:無相と有相
問い
真言師の中には有相の極致こそ密教の本質と言い、顕教は無相を重要と言うがさてどちらが正しいのでしょうか。
夢窓国師答えて曰く
無相とは形や姿、特徴がないことを言い一切の執著に拘らない無為の境地を指す。
有相とは姿、形をもっている存在である現象世界を言う。
我々が花や犬を認識する時、花とか犬と意識する時、形ちや姿を見て判断するのは言葉によって認識することであり有相と言う。
言葉が無ければ花も犬も見えないと言えば不思議に思うかも知れないが言葉が無ければ花の形も犬の姿も見えないと言うのが最近の哲学の定説である。
またAIと言われる人工知能の深層学習、いわゆるニューラルネットワークによる学習も花の画像を花と認識するのは花と言う言葉が無ければ認識できないのであって教師有り学習と言う。
生まれたばかりの乳児はことばを教えてもらう迄は花を見ても犬を見ても背景と花や犬の画像との区別が出来ず曖昧であると言うことです。
ところで同じ花でも犬でも絶えず動いたり変化していて心もそれに応じて移り変わっているのである。
だから有相とは自己は諸行無常の世界にすんでいるのである。
その変化する環境に刻一刻と対応するのが有相と言い有為法と言う。
また無為とは不生不滅と言い生じることも滅することもない世界を意味するのである。
変化する環境に刻一刻と対応しない反応しないことを無為と言う。
対応しない反応しないとは言葉による反応をしないと言うことである。
ものを言葉よる対象化して知ることでは無く一体になって感じることである。
ものは見ること見られることによって真の姿を変えることを諸行無常と言い変わる前の真の姿を知ることはできないのである。
そこには既成概念もバイアスも執着も無い世界である。
だから無相とか有相とかに拘らなければそれが実相無相というのである。
参照
『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。