『無門関』第二十四則 離却語言
本則口語訳
風穴和尚にある僧が問うた。「語黙は離微に渉る、いかんが不犯を通ぜん」
風穴和尚は言った。
「長えに憶う。江南三月の裏、鳥が鳴くところ、花が香る。」
解説
語黙は離微に渉る、語とは言葉による表現、
黙とは主客未分の状態の意味である。
そのどちらにも頼らず「今、ここ、自己」の心を表現するにはどのようにして伝えるのでしょうかと問うたのである。
そこで風穴和尚はその問いに答えて言った。
「三月の江南の思い出は蘇えり、鳥が鳴くところ、花が香る。」
この詩歌は時間と空間を超越しており、因果関係に矛盾があるのである。
いわゆる西田哲学の混沌とした意味のない純粋経験、主客未分の状態を表現しているのである。
言語の規則、自然現象である理性的に表現すれば間違っていても純粋経験、主客未分の世界では許される秩序なのである。
理性の世界では混沌として、意味の無い表現なのである。
意味の無い表現とは因果律に背いた表現である。
それではどのような表現が自然現象に逆らっているのだろうか、
「鳥が鳴く」から「花が香る」ことはないだろう。
「鳥は」「花が香る」から蜜を求めて喜んで「鳴く」のである。
言語の体系は直線的に時間的に進行するが、純粋経験の状態は混沌としており順序が存在していないのである。
所でこれで公案が通ると思っては成らないのである。
これは他者の回答であって自ら主客未分の状態に成って演じなければ成らないのである。
おそらくこのような親切な解説をしている無門関は何処にも見当たらないであろう。
だから無門禅師はそれ以上言っては成らないと言う。
無門禅師の頌
風穴和尚は気を引くような表現は使わない。
言語になる前に心は明明了了。
それ以上言葉に頼っては純粋経験ではない。
言葉を使っては主客の対立、矛盾は決して収まらないと考えよ。
なお誤解の無いように言えば言語や思考も一定の条件を満たせば純粋経験であるのである。
現代の西田哲学の疑問の一つに何故思考、言語体系が純粋経験なのかという問いがある。
これは『無門関』第二十四則 離却語言の問いと詩歌で答えられているのである.
西田幾多郎は『善の研究』において純粋経験とは心像であると言っていることに注目すれば、思惟は具象的心像間の関係であって「思惟と心像とは別物ではない。」と言う。
誤解される要因は個人自らの心象(純粋経験)を原因とする言葉と辞書で調べた言葉の違いを区別しないことである。
心象(純粋経験)を原因とする言葉は純粋経験であって、
心象(純粋経験)を原因としない言葉は純粋経験では無いのである。
具体的に言えば、体験したことのないスポーツについていくら知識が有っても、真意伝わらないのである。
主客未分の体験から生まれた言葉での思惟は何処までも純粋経験である。
言葉による思惟は全て虚構であるという極端な考えも肯定されるべきではない。
引用参照文献
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
『日本の名著』西田幾多郎著 中央公論社
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