『無門関』第三十九則 雲門話堕
本則口語訳提唱
雲門禅師に修行僧が「光明は万遍に全世界を照らす」と言いかけて何かを問うとしたら、
一句未だ言い終わらないのに、雲門禅師は突然「その語句は張拙秀才の作ではないか」と言った。
すかさず修行僧は「その通りです」と答えた。
雲門禅師は即座に「話堕せり」と言った。
何故修行僧の話のどこが堕落なのか。
説明
修行僧が雲門禅師に禅の真理を故人の一句を用いて質問したんです。
すると雲門禅師が話の途中でその句は張拙秀才の作ではないかと言われた。
その通りですと答えるや否や、
その話は地に落ちたと言われたのであるが、故人の一句を引用したのが悪かったのでしょうか。
修行僧の何処に落ち度があったのでしょうか。
わたしも公案を提唱するときには納得しただけでは公開しません。
如何に読者に得心されるか、表現は苦心に苦心して練り上げています。
雲門禅師と修行僧の間であればその苦心の必用ないのです。
張拙秀才の一句であれば全部言わなくっても雲門禅師は知っているのです。
それを長々と語りかけたので止めたのです。
それに対して正直に「その通りです」と言ったから駄目だと言われたのです。
自分の句と言えば良かったのでしょうか。
これが問題です。
ところが、この公案は無門関の中でも少し傾向が違います。
主客対立の世界である今、ここ、自己である現実の問題です。
仏の世界の消息ではなく言葉の意味成立に関する時間と空間が問題になってきます。
無門禅師の評語口語訳
雲門禅師の鋭い問いの働きを納得して、何故修行僧のどこが隋落したのか解かったら人天界において師となるであろう。
ところが解らなかったら自らも自由になるこができない。
解説
以上の評語の中に重要な言葉が含まれているのです。
それは人間界というところでの話し言葉を問題にしているのです。
まず、言葉はどのようにして伝わるのでしょうか。
話し言葉の意味を理解することは当然として、その理解は過去と現在、未来の出会う場所において成立するのです。
言葉は一直線に並んでいて時間的に同時に出会うことは出来ません。
さきほどの無門禅師の評語で出てきた「人天界」を憶えていましたか。
あまり注意をしていなかったと思います。
文字であれば何度も読めば短期記憶に記憶されて出会うことも出来ますが、言葉はすぐにきえてゆくのです。
ここが問題です。
そうです西田幾多郎の『善の研究』で云う所の時間空間が永遠の純粋経験の場所であれば出会うこともできるのです。
これが隋落という意味なのです。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。