見出し画像

『無門関』第三十一則趙州勘婆

無門禅師の本則口語訳

旅の途中で茶店に寄った僧が老婆に「五台山へ行く道はどちらに向かって行けばよいでしょうか」と問うた。

「真っ直ぐに行きな」と老婆が言った。

僧が三、五歩行くと、老婆は「好僧もやはりそうしたか」と言った。

そんな噂を趙州和尚に僧が話した。

「そうかそれでは私が行って老婆を看破して見せよう」と言った。

趙州和尚はその次の朝老婆のところへ行くと同じように問うた。

老婆もまた趙州和尚に「真っ直ぐに行きな」と言った。

趙州和尚が僧たちに向かって「みんなのために老婆を看破した」と言った。

説明

五台山とは文殊菩薩の霊場があるところでその途中に茶店があり、腹ごしらえをする場所であった。

この時代は道路も本道か脇道か区別のつかない幅であり、大抵の旅人はここの老婆にたずねたようであった。

すると座ったまま「真っ直ぐに行きなさい」といってから、「好僧もやはりそうしたか」と言うのが常であった。

僧が問うても趙州和尚が問ても決まって同じ返事であり趙州和尚が老婆の何を看破したのかと言うのが問題である。

ここでみなさんも一度考えて見てください。

言葉で考えてはいけません。

言葉で考えると二元対立、主客対立に陥り答えは出てきません。

善悪、大小、右左などの言葉に拘ると見ているものが見えません。

目の前にありながら見えないのです。

趙州和尚と僧が老婆と会話した条件は全く同じだったでしょうか。

確かに会話の言葉は同じでしたが、明らかに違いがあったのを見逃しているのです。

まず場所を確認しましょう、場所が人間の行動を決定するのです。

場所が違えば言葉が同じでも当然ながら意味が違ってきます。

老婆は何処でどの様な姿勢で話したでしょうか。

そうですね、茶店の店内で椅子に座ったまま外を見ずに話しました。

道を見ずに真っ直ぐに行けと言いました。

僧のいる場所とは広大無辺なのに自己限定して考えてはいけません。

道路と言えば地図を頭に描いてはいませんか。

地図は二次元で現実の世界は三次元、四次元であります。

幅もあれば高さもあるのが貴方が見ている現実です。

店の外へ出れば山が見えませんか遠くても高い山は見える筈です。

だから見えている上に向かって「真っ直ぐに行け」ば到着するでしょう。

道は幾つあってもどの道を通っても上に行けば山頂は一つです。

富士山の登山道路は吉田ルート、富士宮ルート、御殿場ルート、須走ルートとありますが、どの道を通っても山頂にたどり着きます。

一つに拘わらなくとも良いのではないでしょうか。

老婆に五台山へ行く道を聞いて迷って到着しなかったと言う僧は居なかったのです。

言葉で考え無いで外へでて見れば一目で了解できるでしょう。

言葉に拘って考えるとは虚像をねつ造することです。

現実の世界は嘘も騙しもしません。

老婆も嘘や騙したりもしていません。

無門禅師の評語の口語訳

老婆は座ったままで無事に到着すること考えていても、

賊が侵入したこをしらない。

趙州和尚はまんまと気付かれづ敵の城に入った。

しかし老婆の魂胆を探ろうとしてはいけない。

だから二人には過ちがある。

それでは趙州和尚は老婆の何を看破したのか

説明

もうおわかりでしょうが老婆は実相で見、僧は言葉で見ていたのです。

老婆は三次元の立体像を見ていたのに対して僧は二次元の地図を見ていたのです。

趙州和尚はその違いを即座に見抜いていたのです。

趙州和尚はわざわざ出かけていって老婆の魂胆を探ろうとしなくても解っていたではないか。

だから両者両成敗引き分けだ。


無門禅師の頌口語訳

問いは一つ

答えも一つ。

ご飯に砂あり

泥に刺あり。

解説

見た目が同じ現象でもご飯に砂が混じっていることもあり、

表面だけではなく内部に含まれている広い世界も見るように注意しているのです。


参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集