得たものと見失ったもの
人と関わって仕事をして削れて人当たりがやさしくなったらしい。
ずっと、自らの至らなさを省みて改善を試みてきた。それによって、少しは社会性が身についたらしい。得たものは多いのかもしれない。
しかし、何かが違うと思い始めたらしい。
身体と心が頭に支配していたのだが、どうやら身体と心が悲鳴をあげた。
本当はどうしたかった?
問いかけの答えすら思い浮かばない。
しかし、身体は正直に悲鳴をあげた。心も悲鳴をあげた。本当はどうしたかったのだろう。
いつの間にか社会に出て、出世など望むこともなかったわたしは、人格の成長のためと高尚な理想を掲げながら、日々の自分を省みていた。
しかし、どうやらわたしはそれ程、人格の成長を望んでいないらしい。
何か、、、臭いのだ。
臭いものに蓋をしても臭いものは臭い。
わたしはそれ程立派でもないし、そうなる必要もない。
ただ、日々、ご飯を食べて、寝て、排泄して、それが出来ることの恩返しに大したことをしなくてもいいから働くことで十分なのではないかと思う。
立派でなくても、ただ、生きていられればそれでいい。
いついつまでに結婚して、子どもを授かり、所帯を持ち、自動車を買い、家を買い、いっぱしの大人になるのだと思って理想を持っていたが、それもどうやら望まないらしい。
今、ただ生きられる。生きることが許されている。それだけで幸せなのかもしれない。
今、見失った「本当はどうしたかった?」に応える心のわたしの回答を待っている。
お読みいただいてありがとうございました。