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魂の関係を回復する

 魂って何だろう?という問いについて、鏡に映っている自分、言い方を変えると人に見せている自分ではなく、鏡のこちら側の自分、あるいは哲学者池田晶子の言い方を借りると、「すでに自分であるところの自分」のことなんじゃないか、ということを前回書きました

 今回もその続きですが、ユング派の心理療法家の河合隼雄は、かつて、援助交際をする若い女性に関するテーマに際して、「体と心とを裏打ちして「いのちあるもの」として、人間を生かしているのが「たましい」である」と述べています(『世界』1997年第632号)。そして、体と心を割り切って切り離してしまっているがゆえに、魂が傷ついていることを意識できない状態の相手に、理屈で説明しても通用せず、「魂の関係を回復する」ことこそ重要であると述べています(魂の関係において、体と心の一体性が回復し、痛みを感じることができるということですね)。

 「魂」とは何かということだけでも難しいところへ、「魂の関係」だなんて、さらに難しいテーマが出てきてしまいましたが、相手が表面で演じている姿のその向こう側にあるであろう相手の魂に目を向けようとする関係だということは言えそうです(もっとも、それを実践するとなると難しいわけですが)。そして、そのような関係が希薄になっているということも、間違いなさそうです。対面でのコミュニケーションが手紙や電話、さらにはメールやSNSと、どんどん簡素化されるにつれて、データとして軽い表面だけの情報だけが伝達されて、「魂」みたいに生のデータは、データとして重すぎて、なかなかやりとりが難しい時代になっているんじゃないかと思います。

 魂ということばを使うとわかりにくくなりそうですが、自分の本質的なところまで理解してくれていたな、と感じる経験を思い起こすと、なんとなく魂の関係というのがどのようなものなのか、感じることができるかもしれません。と言っても、カルトの問題のようにカリズマティックな相手に対する妄信とは違います。その手の理想化は、魂に目を向けてくれるんじゃないかという「期待」であって、実際に魂に目を向けてくれているということとは別物です(言い方を変えると、カルトの問題は魂の関係の希薄さが背景にあるとも言えるんじゃないかと思います)。

 昔、小学生の高学年のころ、親の転勤にともなってごく短い期間だけ通った学校がありました。そのときの担任は男性の先生で、クラス運営に熱心な先生でした。あるとき、学級文庫に新しい本が入ったということで、朝の会でその本を紹介していました。わたしは面白そうな本だと思って、借りたい人はいるかという呼びかけに手を挙げて、その本を借りました(確か青い鳥文庫か何かのシリーズで、船で冒険に出るみたいな内容の上下二冊の本でした)。本が面白かったということもあり、二、三日後くらいには読み終わったので担任の先生に返したところ、すごく驚いた様子でわたしの肩をドンと叩きました。何がそんなに驚いたのかすぐにはわからなかったのですが、読むのが早かったということだと先生の口ぶりからわかりました(自分では早かったとは思っていなかったのです)。肩を小突かれたのには自分も驚きましたが、それが激励であるのはすぐにわかりましたし、自分の指向というか存在そのものを受け入れてくれていることがやりとり全体からヒシヒシと実感されました(そのときの先生の驚いた顔は、今も覚えています)。その学校をすぐにまた転校していくことになるのですが、担任の先生はそのやりとりを覚えていたのでしょう、お別れに際して同じシリーズの本を二冊、餞別にくれました。(ついでに言うと、関西のその小学校は、級友のみんなも転校生の自分に対してすごくフレンドリーで、短期間でしたが良い思い出となっています。)

 これを魂の関係と言えるのかわかりませんが、学校の先生との記憶はあまり良いものがない中で、この先生とのやりとりは、それに近いものとして思い出されます。今の教育は教育の平等という理念による画一化が進んでいるので、先生も生徒一人ひとりに目を向けることの意味が感じられなくなっているかもしれません。そのような状況なのだとしたら、魂の関係を回復するということをちゃんと考えてみることも必要なんじゃないかと思います。

 先のエピソードはささやかな例ですが、外向けに作って演じている自分ではなく、池田の言い回しを借りると「すでに自分であるところの自分」に目を向けてくれた(あるいは目を向けようとしてくれた)経験を思い出してみると、ひょんなところで、そのような経験を得ていることに気づかされるかもしれません。そして、そのような経験の記憶に励まされて、自分も相手の魂に目を向け、耳を傾けようとしたくなる。そんな循環が生まれるといいですね。


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