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「死」を意識することで「今」は輝く。 〜「余命一年、男をかう」を読みました〜


吉川トリコさんの「余命一年、男をかう」を読んだ。

人はいつか死ぬ。
当たり前だけど、そのことを思い出させてくれた。

今、仮に余命を宣告されたら嬉しいだろうか?
「あぁ。やっと終われる。楽になれるんだ。」と、救われる気持ちになる人だってきっといるのだろう。

人生が「期間限定」であることを、人間はすぐに忘れてしまう。
期間限定だからこそ楽しもうと思えるのだし、逆に永遠に続くと思ってしまうからしんどかったりする。

明日なんて来ないと思って生きられたらいい。
私の余命は今日一日。
そう思えたなら、今日を大切に生きることができないだろうか?

死ぬまでただ生きているだけ。
日々をやり過ごしていくのは結構しんどい。
生きたいと思える何か、余命宣告が悲しくなるほどの何かに出会って生きていたい。

結局、人生とは死ぬまでの「退屈しのぎ」なのだろう。
意味のある人生なんてないし、逆に言えば意味の全くない人生なんてものもない。
要は、自分がどう定義して生きていくか。
意味のある人生だとラベリングしてしまえば、目の前の人生は意味のある人生として進んでいく。

意味を感じたいんだ。
だから私たちは仕事をするし文字を紡ぐし、大切な人に告白なんてするし、子供を育てて社会の一部になろうとしてみたりする。
そうやって、自分の人生を意味があるものとして「信じ込もうと」する。

人生は「プレーン」のパンケーキだ。
そこに意味というトッピングを、好きなだけ載せれるだけ載せて楽しんでいけばいい。
まぁ、そのままでも十分に美味しいから、無理に意味を後乗せしようと焦る必要なんてないのだろうけど。

仮に今余命宣告を受けて、どう思うだろう?
やり残したこと、後悔。哀しい気持ちに襲われるだろうか。
でも、別に今日余命宣告を受けたとて、何も不思議なことではない。
むしろ余命宣告を受けられただけラッキーで、宣告なんてなく次の瞬間に「はい!終わりでーす!」って向こうの世界に連れていかれる可能性だって、確実に存在している。

だから、やりたいことをやろう。
やりたいことをやるしかないんだ。

期間限定の人生を、やりたいことやってただ楽しんでいきたい。
責任とか重圧とか不安とか憂鬱とか、とりあえず傍に寄せて置いて。
そんなもの、どうせ死んだら関係なくなるから。今を楽しんでいこう。

永遠には続かないよ。
期間限定であることを強く意識することで、この人生をしっかりと味わおうと思えるんだ。

終わりが来た時、「あぁ!おもろかった!」と爽やかな気持ちで旅立っていきたい。
そのために出来ることは、今終わってもいいように、今やりたいことを今すぐにはじめてしまうことだけだ。

死は恐れるものではなく、人生をより豊かにしてくれる「味方」だと思っている。
いつか終わるんだから、好きに生きていいよ。
死が私の人生を、好きに生きることを肯定してくれている。

好きな人には好きだと伝え、好きなご飯をお腹いっぱい食べて、好きな本を読もう。
死を傍に置きながら、強く意識しながら生きていこう。

あなたも死ぬし、あなたが大切にしている存在もいつか同様に死ぬ。
「今」を大切にしていくしかない。
死は避けられない。その事実だけが、今の持つ価値を最大限まで高めてくれている。

いつか死ぬことを忘れるな。
ラテン語で、「メメント・モリ」って言うらしい。

これからも、積極的に死に触れていきたい。
いつか死ぬことを、私たちはすぐに忘れて、今を蔑ろにしてしまうから。

余命がどのくらい残されているかはわからないけど、今こうして生きていることだけは確かだ。

せっかく与えられている今日を喜びながら、感謝しながら、いつか必ず終わりを迎えるこの人生という物語を、期間限定の物語を、大切に大切に味わっていこうと思う。

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