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時に曖昧に。時に明瞭に。バランスよく生きていたい。 〜「愛の夢とか」を読みました〜


読書をしていると、思いもよらない言葉との素晴らしい出会いがある。
だから僕は読書が好きだし、読書をやめられないのかもしれない。

川上未映子さんの「愛の夢とか」を読んだ。
7つの短編が収録されており、そのどれもが美しい表現で紡がれていて、読んでいて心地がよかった。

きっとサビの部分ではないのだろうけど、めちゃくちゃ印象に残ったフレーズがある。

「どうしてあなたはそんな前向きに考えられるの」
「前向きなんじゃなくて、曖昧なだけなんだよ」

深い。
確かに前向きに人生を楽しめている人間は、物事を繊細に捉えず、曖昧にしながら生きれる人なのかもしれない。
そして曖昧にできず、物事と正面からぶつかって、これでもかというほどダメージを浴びるから、私のように後ろ向きな人間が生まれる。

「曖昧に生きる」という表現にはじめて触れたが、私が目指してきた生き方ってこれなのかもしれない。

自らの心の弱さを嘆いてきた。
それを言語化して紐解いていくと、「曖昧に生きられなかった」ということになるのかもしれない。

曖昧であることに不安を覚え、その種を逐一潰すことにエネルギーを費やす。
「完璧主義」とも近いかもしれないが、そうやって私は人生を苦しんで生きてきた。

そうか。
私は「曖昧に」生きたかったんだ!

楽に生きるための手段として、近年「筋トレ」を習慣化した。
格段に生きやすくなったのだけど、それは「曖昧に生きるスキル」が筋トレによって高まったからかもしれない。

良くも悪くも、筋トレをしていると思考が浅はかになる。
いや、浅はかになってくれると表現しよう。
考えすぎで気にしいな自分にとっては、日々を曖昧にしてくれる筋トレは神からの授かりもののようだ。

昨今ブームになっているサウナとかも、日常を曖昧にするのにはうってつけだ。
ととのうとはつまり、曖昧になった現実に曖昧な状態で存在できることが、とても気持ち良いのだ。

曖昧に生きたい。
でも同時に、日々の喜びに繊細に気づける己の長所も、手放さずに生きたい。

私が小説を読むのは、曖昧にせず、人間の感情をこれでもかと明瞭に表現しているのが好きだからだ。
曖昧と明瞭。
この両輪で、時にうまくシフトしながら生きていられたら、人生は豊かになると思う。

たった一行が、人生を豊かにしてくれた。
だから読書をこれからも続ける。

時に曖昧に、時に明瞭に。
この人生を、死ぬまでの間でできるだけ味わっていこうと思う。

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