奈良の大仏様はどう教えられてきたのか?(11)壮大な無駄?④ー歴史授業の進化史・古代編
もくじ
(1)はじめにーならの大仏さま
(2)天皇はいばってる?ー金沢嘉市氏の授業
(3)民衆を苦しめた?ー山下國幸氏の授業
(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業
(6)オールジャパン・プロジェクトー安達弘の授業
(7)日本人と天皇と王女クラリス
(8)三島由紀夫と歴史教育
(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業④「人」のいる歴史とは
気になることはもう一つある。
向山氏はポイントBの冒頭で授業のポイントを「大仏をつくった時の大仏をつくった時の人々の願いをとらえさせること」と言っているが、この授業展開でなぜ大仏をつくった時の「人々の願いをとらえさせること」が可能なのか、理解に苦しむ。
なぜなら、氏の展開はただ単に銅を供出した人が予想外に多い、ということを教えただけである。どこにも「人々の願い」を検討した後がない。本来は「なぜ人々はなけなしの大切な銅を大仏づくりに供出したのか」と問うべきだが、そのような問いは出していない。じつは向山氏は歴史学習について次のような見解を持っているのである。
北俊夫氏の次の主張に共感する。
「人物を扱う時に、〈なぜ・・・したか〉という問いは避けるべきではないか。それは答えようがない。〈どのように・・・したか〉と問うべきである」「山になぜ登ったか?」は答えようがない。「山にどのように登ったか?」なら答えられる。人物を扱う上で、動機を追究すべきではない。行為を追究するべきである。 (前掲書 27ページ)
「動機を追究すべきではない」という氏の方針を一旦は理解しよう。だが、それならば「人々の願いをとらえさせる」という二時間目のポイントBの設定は明らかに矛盾している。
銅を供出するのは行為である。行為には動機がある。貴重な銅を供出した人々はさまざまな願いをもって供出したはずである。ということは願いは動機でもある。
動機は追究すべきではないと言いながら願い=動機をとらえさせる、とは矛盾している。ところが実際には「願い」はまるで検討されていない。ということは向山氏は矛盾した授業ポイントを設定しながらも実践では自分の見解通りに動機の追究は抑制しているのである。
さらに複雑なことに動機の追究はなされていないのにも関わらず、子どもたちは教師の見解とは裏腹に動機を追究してしまっているのである。先に紹介した子どもの感想文をもう一度見てみる。
でも、その人達は大仏をつくれば、病気などがなおる、と信じていた。
だから、銅を渡したんだ。
貴族達は、大仏をつくることによって、国を統一できると信じていたのだ。
この感想文を書いた子は人々の願い=動機を「病気がなおる」からと考えていることがわかる。また、ついでに言えば貴族の動機も「国を統一できる」からと考えていることがわかる。
この事実は歴史学習の中でその時代に生きた人々の行為の動機を教師が扱わないことの無意味さを教えてくれる。
子どもは昔の人々の願いを知りたいのである。動機を追究してみたいのである。心の中をのぞいてみたいのである。この子どもの歴史に対する興味を、その時代の人々に共感させる機会を与えてやるべきである。
それが「人」のいる歴史というものである。歴史教育は「人」のいる歴史を教えるべきである。さて、この子の感想文はこう続いている。
でも、たくさんの材料と人と年月をかけてつくられた、ねがいのこもった大仏は、人々のねがいをかなえてくれなかった。
「ねがいのこもった大仏」とある。人々の大仏に対する願いをこの子はずっしりと感じているのだ。だが「大仏は、人々のねがいをかなえてくれなかった」と結んでいる。確かに大仏を造ったからといって疫病が忽然と消えたとは思えないし、自然災害がピタッっと止まったとは思えない。そんな超常現象は私も信じない。だが、私はこのような結びを書かせてしまう歴史授業に悲しさを感じる。
ここまで、向山氏の二時間目の授業について二つの気になる点を指摘した。しかし、根本的な問題は向山氏の授業に聖武天皇が出てこないことにある。この巨大プロジェクトの発案者である聖武天皇の詔を読めば、子どもたちはプロジェクトの意図を理解することができる。それがわかれば多くの民衆がなけなしの銅を供出した理由もわかるはずだ。また、リーダーの意図がわかれば、それに応えようとした民衆の気持ちも想像することができる。
数字の出し方で子どもたちを驚かせるよりも聖武天皇の詔を読ませ、天皇と民衆の間の一体感を感じ取らせることの方が何十倍も歴史教育にとって重要であるはずだ。