見出し画像

戦争画の鑑賞法~戦争画よ!教室からよみがえれ③

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。 

 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ 

 (3)戦争画の鑑賞法

  今回も戦争画を見てもらうところから始めよう。

福田豊四郎『馬来作戦絵巻』(部分)1944

 美しい木立の中を自転車に乗った人たちが走っている。あなたはこれをどんな場面だと思うだろうか?

 色鮮やかな美しい風景だ。カラフルな鶏もいる。自転車に乗っている人たちは背中に何か背負っている。もしかしたら乗っているのは兵士?背負っているのは銃?よく見ると手前右の廃自動車らしきもののフロントガラスに銃痕がある。どうやらここは戦場跡らしい。それにしてもなぜ自転車に乗っているのか。

 これは福田豊四郎『馬来作戦絵巻』(一部分)である。「馬来」は「マレー」と読む。マレー作戦はイギリスの植民地となっていたマレー半島に進撃してイギリス・アメリカの軍事拠点を押さえて英米勢力を駆逐し、資源地帯を確保することが目的だった。

 当時はまだ自動車等による機械化が遅れていて歩兵の移動は徒歩中心だった。作戦の成功の為には歩兵移動の高速化が必要と考えた陸軍は自転車を利用することを思いつき、自転車部隊を編成した。これが通称「銀輪部隊」である。

画像4

 当時の日本軍「銀輪部隊」の存在を知らなければ、上記の絵を「兵士のつかの間の休息時間」「戦争終了後の牧歌的な風景」と考えるかもしれない。しかしそうではなく、これは今まさに進撃している情景なのだ。そう考えると手前の鶏がスピードを上げて忙しく走っているように見えてくる。

 つまり、この戦争についての情報がないと見ている戦争画を誤解する可能性があると言えよう。

 上記を確認した後に、以下の私の考える戦争画の鑑賞法を読んでいただければ幸いである。ちなみにこれは戦争画に限らない。絵画をはじめとするアートを見るとき、私は以下のような考え方で鑑賞することにしている。

 まずは私の経験談をお読みいただきたい。

 数年前に国立新美術館で開催中の「ピカソ展」に行った。別にピカソが好きだったわけではなく、誰もが知っているあの有名なピカソだから行ってみようと思っただけのこと。無論、どの作品を見ても予想通り「意味分からん」・・・。本で見たことのある有名な絵があって「これが本物なんだね」と本物を見たという優越感に浸るぐらいのものである。

 見終わってさっさと帰ろうと思ったのだが、同じ館内の別の場所でアマチュア画家のみなさんの展覧会をやっていた。しかも無料!。せっかくここまで来たんだし、暇つぶしにと入った。アマチュア画家と書いたが、どれもメチャクチャ上手い!。よく知らないで入ったが、大きな展覧会のかなり上位の方が入選するようなものだったようである。

 しかし、ふと思った。

「つまらないなあ・・・」 

 すごく上手いのだが、ちっとも面白くない。上手いけど面白くない。

 それ対してさっき見たピカソは「意味分からん」だったが、絵に引き込まれていったのは事実だ。つまり見ていて「何これ?」「どうしてこんなものを描く?」・・・とにかく自分の心の中がザワザワしていたのは間違いない。

 そのとき、思った。

「そうかアートを楽しむってこういうことなのか」

 美術評論家の椹木野衣氏はこう言っている。

「そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。答えは簡単で、見る人の心を動かすものにほかならない。哀しみでも憎しみでも喜びでも怒りでもかまわない。ポジティヴな感情でもネガティヴなものでもかまわない。見る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件なのである」(椹木野衣『感性は感動しないー美術の見方、批評の方法』世界思想社p4)

 さて、その後興味をもった私はピカソ関係の本を数冊読んだ。

 するとあの有名な『泣く女』の顔がグチャグチャでバラバラなのは一つの顔をさまざまな方向から見て、そのさまざまな方向から見たものを一つにまとめたものだからなのだという説明を見つけた(この説明で合っているかどうかちょっと自信はないけれど)。

泣く女

 さらに、こういう描き方をキュビズムと言って、見たままに写実的に描くのではなく、形を省略し□や△や○などの簡単な形に置き換えたものらしい、ということも知った。

 そういう意図があったのか・・・なんでそんなことをしようと思ったのかはわからないが「誰もやったことのないことをやってみよう」というピカソの気持ちはよくわかる。

 こんなふうに、時代背景や作品の背後にある考え方、周辺情報(例えばキュビズムはピカソだけでなくジョルジュ・ブラックという人も熱心にやっていた、とか)を知るとますますその絵を見るのが面白くなる。

 下の絵をご覧いただきたい。
 ちなみに皆さんはこれはどんなシーンを描いていると思うだろうか?

怒れるメディア

 私は悪者から逃げる母親が二人の子どもを必死になって守っているところだと思った。ところが、全然違うのだ!

「この絵を見せてタイトルも告げ、どんなシーンを描いた作品と思うか、当ててもらった。すると皆が皆、口をそろえて曰く、悪人に追われた母親が子供を守ろうとしている。ー絵は己の感性だけで味わえば良し、との鑑賞法がいかに誤解を生みやすいかの好例であろう」(中野京子『欲望の名画』文春親書p12)

 というわけで私の予想はじつは大ハズレ。これはドラクロア『怒れるメディア』というタイトルの絵である。

 王女メディアは父と弟を裏切って恋に落ちた敵である男との間に二人の子を生む。ところが今度はその男が彼女を裏切ったので恋仇とその父を呪い殺し、それだけでは飽き足らないメディアはなんと男の息子(つまり自分が生んだ子)を殺して苦しませようと考える。

 中野京子氏の解説の引用を続ける。 

「母は我が子を守ろうとしているのではなく、殺そうとしている。ナイフは敵と戦うためではなく、我が子を刺し貫くための凶器だ。幼い息子たちは本能的にこの先を予感し、迫りくる運命に怯えきっている」(同上p15)

 ギリシア神話の一つなんだそうだが、なんという怖ろしい話なのだろう。いやそれはそれとして、私がこの例で言いたいのは、作品の背後情報や周辺情報がないとまるでトンチンカンな見方になってしまうこともあるよ、ということなのである。

 さて戦争画の話に戻る。

 すでにお伝えしたように戦争画はその呼び名からして誤解されやすいジャンルである。さらに一部のエセ平和主義者から「戦闘シーンを描くのは戦争礼賛だ」とか「軍隊に協力していたから許せない」とか「国民を戦争へと扇動した」、果ては「戦争を描くのは芸術としてレベルが低い」などの罵詈雑言を浴びせられている。こういう話を聞いたり読んだりすると、そういうものかな?と思う方もいることだろう。

 そう思った方は先に紹介した中野京子氏の次の言葉を読んでいただきたい。

「背景を知っても、そしてその背景が思いもよらないようなものであっても、いくつもの幻滅が重なっても、にもかかわらず絵の価値は変わらない―それこそが真の芸術作品のはずです」(中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』NHK出版p190)

 その絵の背景に戦争があっても軍隊への協力があっても当時の世相への迎合があっても(私はどれもちっとも恥じることではないと思っている)、その絵に価値があることを認めるのであればそれでいいはず。なお、戦争はしないほうがいいに決まっているが、戦争や軍隊を「悪」と決めつけるのは知的怠慢であり職業差別だ

 私は教材としての価値もだが、ひとりのアートファンとして戦争画そのものの価値も認めている。さらに中野氏の言葉を見てみよう。

「作り手の人格と芸術が乖離していることは、少しも珍しいことではなく、文学も音楽も、いえ、芸術以外の世界でも、こんな人間なのにこんな素晴らしいものを産み出したのか、こんな下劣な人間が、こんな崇高な行いをすることがあるのか、という例は枚挙にいとまがない」(同上p190~191)

 勘違いしないでいただきたいだが、戦争画を描いた人たちは決して「下劣」ではない。戦争画を描いた人を糾弾する人たちこそが「下劣」なのだ(これについては章を改めて書く予定だ)。

 ここで中野氏が言いたいのは作品の時代背景その他の背後・周辺情報を知ることでより深く絵を味わえるのだが、それを知ることで「幻滅」したとしても、その絵の価値とは基本的には関連はないはずだということだと思う。

 中野氏は最後にこう言っている。

「「にもかかわらず美しい」ーそれこそが芸術の毒であり魅力です」(同上p191)

 この言葉をこう言い換えてみたい。

「にもかかわらず戦争の真実を伝えている」―それこそが戦争画の毒であり魅力であり、ゆえに歴史教材の宝庫なのです

いいなと思ったら応援しよう!