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奈良の大仏様はどう教えられてきたのか?(10)壮大な無駄?③ー歴史授業の進化史・古代編

もくじ
(1)はじめにーならの大仏さま
(2)天皇はいばってる?ー金沢嘉市氏の授業
(3)民衆を苦しめた?ー山下國幸氏の授業
(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業
(6)オールジャパン・プロジェクトー安達弘の授業
(7)日本人と天皇と王女クラリス
(8)三島由紀夫と歴史教育

(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業③貧窮問答歌は適切か

 二時間目は授業記録がないので、向山氏自身が書いている2つのポイントをもとに検討してみるとことにする。

二時間目。
①ポイントA 大仏の大きさをとらえさせること
 大仏の鼻の穴(堂内の柱に大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴があるのは有名だ。観光客がこの穴に体を通している姿がよく見られれる。筆者も通ったことがある)、大仏とともに向山氏が一緒に写ってる写真、八角灯篭の写真を取り上げる。氏は「全体を示すより、部分を示した方が大きさはイメージできる」と言っている。
②ポイントB 大仏をつくった時の人々の願いをとらえさせること
 全国から材料が集められたことを話し、その中から銅について取り上げる。まず、貧窮問答歌を読ませる。これで当時の民衆の生活をイメージさせる。一般の民は竪穴式住居に住んでいて、そのうちどれくらいの人が銅鏡などの所持物で銅を持っていたか?さらにそこからどれぐらいの人が銅を寄付したのか?を推定させる。子どもたちは「五〇〇人ぐらい」から始まり、貴族の数の「一〇〇〇名ぐらい」、地方役人も入れて「二〇〇〇人ぐらい」と予想が出てきた。先生は黒板に「三七二」と書く。子どもから「やっぱりね」という声が聞こえる。先生はその反応を聞き取ってから下に〇を一つ付け足して「三七二〇」とした。「へえー」の声が漏れる。さらに数字を付け加えて「三七二〇七五人」とすると、教室が静まりかえった。

 以上が向山氏の二時間目の授業の二つのポイントである。

 さて、では授業後の子どもたちが奈良の大仏を「壮大な無駄」と感じてしまったのはなぜなのか?

 理由の一つは一時間目で使われた物語「奈良のみやこ」であることは明々白々だ。これについてはすでに検討を加えた。

 その他に理由はないのか。気になることが二時間目に二つ。どちらもポイントBにある。まず「貧窮問答歌」である。中西進氏の訳で全文を読んでみよう。

 風と雨。そこに雪までまじる。どうしようもなく寒い夜だ。だから、岩塩をとってふくみながら糟湯酒ー酒粕をお湯に溶かした安い酒。先ほどいった「貧」の象徴としての酒ーそれをすすりながら咳をする。鼻もグズグズする。髭まで貧相ーちょび髭か、うす髭だ。それでも自分以外に立派な人物はいまいと威張ってはみるものの、やはり、寒いから麻の衣を引っかぶる。そんな寒い夜、自分より貧しい人に思いを馳せる。お父さんやお母さんは飢えて寒がっていることだろう。妻や子は食べ物や着る物をほしがりながら泣いているにちがいない。そのときおまえはどうしているのか。
 天地は広いのに、どうして自分はこんなに世間を狭く生きなければならないのだろう。人はみなそうなのだろうか。自分だけこうなのだろうか。たまたま人間として生まれてきたのだから、もっと恵まれてもいいのではないか。別に怠けているわけではなく、みんなとおなじようにわたしも生業に励んでいるのに。綿など入っていない布肩衣は、海藻のようにボロボロにぶら下がっている。潰れかかったような家のなかの地面に直に藁を敷いて、両親は枕のほうに、妻や子は足もとにうずくまっている。みんなが悲しみのうめき声を立てている。かまどで火を焚いたことは絶えてないから蒸し器には蜘蛛の巣が張っている。飯を炊くことも忘れて、ぬえ鳥のようにうめくように鳴く。すでに短くなってしまったものの端を切るというように、むちを持った村長が家の戸口まで来て、何回も働け働けと怒鳴り続けている。このように、どうしようもないものが世の中の道理というもんだろうか。

 世の中をつらい、自分を恥ずかしいと思うが、鳥ではないから飛び立ってこの世を棄てることができない。
 (中西進『悲しみは憶良に聞け』光文社 124~125ページ)

 これだけを読めば当時の民衆が貧しく、虐げられ、食うや食わずの生活をしていたと思うに決まっている。可哀想な民衆と贅沢な貴族という図式である。とすれば、貴重品の銅を出す民衆は少ないと考えるのは当たり前の結論だ。向山氏はこの論理を逆手にとって数字の出し方を工夫し、ドラマチックに結論を導いたのだろう。

 しかし、この展開には二つの大きな問題がある。

 一つはこの「貧窮問答歌」そのものを事実としてよいのか、また仮に事実だとしてもこの「貧窮問答歌」と竪穴住居のみで民衆の生活をイメージさせて良いのか、という点である。

 中西氏は山上憶良が「貧窮問答歌」を歌った思想的背景として①仏教思想の影響②当時参議だった丹比県守への人民が窮乏していたことの訴え③地方官としての民衆生活を見聞④中国の詩人・陶淵明の影響⑤「栄達」と「貧窮」という人間の生き方に関わるテーマを選んだ、の五つを上げている。この中西の指摘によればこの歌は事実を見聞して作られた可能性もありえる。

  しかし、山口博氏は「貧窮問答歌」と唐代に流行した流浪詩人・王梵志の「貧窮田舎漢」を比較検討して以下のように述べている。

「貧窮問答歌」と「貧窮田舎漢」の関係に初めて注目した菊池英夫氏の論は明快で、「貧窮田舎漢」と王梵志の他の詩のみで、「貧窮問答歌」の出典の全ての説明をする。私は「貧窮問答歌」と「貧窮田舎漢」のみならず両作者の全詩歌を検討して、菊池氏の論は全く正しいと考えている。(山口博『万葉集の誕生と大陸文化ーシルクロードから大和へ』126ページ)

 「貧窮問答歌」は唐の詩が元ネタになっていること示している。もちろん出典が唐の詩人にあるからといって事実の見聞ではないとは言えないが、吉田孝氏は、王梵志との共通点と憶良が国司として当時の親子関係を教導する任をもっていたことを指摘して以下のように言う。

 貧窮問答歌で、尊い父母が枕の方に、めぐしい妻子が足の方に、と対比してうたわれたのも、憶良のいだいていた家族のあるべき姿を投影しているのではなかろうか。しかしそれは憶良にとって詩の真実ではあっても、庶民の生活の事実とはいえない。もちろん貧窮問答歌のなかには、貧しい庶民の生活をいきいきと描いている部分があることはいうまでもないけれど・・・。(吉田孝『大系日本の歴史③古代国家の歩み』小学館ライブラリー317ページ)

 中学校教師の服部剛氏もこの憶良の歌と『王梵志詩集』の関連にふれた上で、次のような奈良時代の事実も指摘している。(服部剛「第十三講貧農と民衆の視点を以前強調」『正論SP3産経教育委員会一〇〇の提言』50ページ)

*東大寺造立で雑用係の男には一日当たり玄米八合、塩、酒糟,海藻が支給された。
*鉄製の農具が普及し、耕地拡大が可能になった。鉄製農具の普及の証拠として遺跡から砥石が多数発掘されている。
*奈良時代にはすでに牛馬耕が行われていて、開墾が効率的に進んでいた。
*「坂東(関東)の諸国の男女は、桜の花咲く春に、あるいは紅葉の葉が色づく秋に、手を取り合い連れ立って、神に供へる食物を携へ、馬に乗りあるいは歩いて筑波山に登り、一日中楽しく遊び過ごす」(『常陸国風土記』)

 最後の常陸国風土記の記述は「歌垣」と呼ばれる古代の合コンである。広範囲の地域からそれぞれの村の若い男女が山の麓に集まって遊ぶのである。気に入った相手を見つけると歌を歌って気を引こうとする。その歌に対してさらに歌を返せばカップル成立だ。なお、西日本では三輪山の麓で同じことが行われていた。じつは奈良時代はけっこう楽しいのである。

 つまり「貧窮問答歌」と竪穴住居だけで子どもに民衆イメージを持たせるのは偏った奈良時代イメージを持たせることになってしまう。

 もし、これに服部氏の指摘する四つの事実を加えて提示したら、どうなっているだろうか。銅の供出は「けっこう多いかも」と予想する児童は増えるかもしれない。授業展開は大きく変わる可能性がある。さらに前述した聖武天皇の詔勅のいくつかを加えたら子どもたちの予想は大きく異なるものになるだろう。

 だが、一時間目に物語「奈良のみやこ」を読んで、さらに二時間目に「貧窮問答歌」を読ませれば暗い時代イメージが内容理解の土台になり、「壮大な無駄」と考える思考回路のスタートになるのは必然だろう。

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