見出し画像

#099 [読書レビュー]棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか(棚橋弘至)

自分を変え、組織を変え、会社を変え、業界を変え、プロレス人気をV字回復させた選手。「百年に一人の逸材」と呼ぶにふさわしい男。

2002年の2月の新日本プロレス札幌大会、当時は新日の2月の札幌は何かがおこるとされていて、この年の札幌事変は新日本プロレスの歴史に語り継がれる伝説となりました。そう、猪木問答です。

2002年当時はK-1やPRIDEが全盛期で、総合格闘技ブームに押されてプロレス人気は低下していました。猪木自身が総合格闘技にファンを煽動した張本人でもありますが。

加えて新日本プロレスは武藤敬司や小島聡などの看板選手の流出で闘魂三銃士時代も終焉を迎え、客足が伸び悩み、窮地に立たされていました。

そんな中、猪木が新日本のリングに降臨。この猪木問答の中で、若手のエースだった棚橋は、「俺は新日本のリングでプロレスをやります!」と高らかに宣言。そこから棚橋の新日本プロレス改革が始まります。

世田谷区上野毛にある新日本プロレス道場のアントニオ猪木の等身大パネルを撤去。藤波、長州などの新日本のストロングスタイルの象徴である、黒のショートタイツを一切排除。前時代的なイズムを消し去ります。

カラフルなコスチューム、「愛してまーす」の決め台詞など、会社を、そしてリングを棚橋色に染めていきます。

そしてドブ板営業ともいえる地方興行プロモーションの数々。選手としてリング上では第一線で戦い、リングの外ではひたすらプロモーションとメディアへの露出。いったいいつ寝ているんだろうと思える、この地道な努力が実を結んで、棚橋と新日本は新たなファンを獲得していきます。

結果、新日本プロレスの営業成績はV字回復。プロレス人気回復の立役者となりました。新たなファン層の獲得、特に女性ファンが急増したのは、棚橋無くしては考えられません。

大改革を成し遂げた棚橋。IWGPヘビー王座を何度も獲得。満員のイッテンヨン東京ドームでメインを張る選手になりました。花道を歩く入場シーンは本当に痺れます。それにしても棚橋、私と同い年ですよ…。すごすぎる!

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集