伝えたいことはたくさんあるのに、発信するのには勇気がいるのはなぜ?
noteをはじめたのは、純粋に「書きたいことがたくさんあるから」だったのですが、発信するのはまだまだ苦手だなぁと思います(他のものも含めて)。
それでも、noteをはじめてよかったなと思うことは、こんなにもたくさんの人が自分について綴っていることを知れたこと。
そもそもnoteを含むSNS全般に、日常的に触れていなかったわたしは、noteを読むうちに「面白い生き方をしている人がこんなにいるんだ!?」ということに、はじめて気づきました。
会社員をしているときって、SNSって「見る」ものだったし、少なくとも「自分」は発信するものではなかったんですよね。
今って、普通の人がいくつもアカウントを持っていて、日常的に発信とか配信とかをしていると思うのですが、10年前とかってそんなだったけなって。
それくらい今って誰もが発信する時代になってきていて、誰もが発信を通して自分を見出しているとしたら、5年後にはまた「発信」の価値も変わっているのかもしれないし、これは「やる」と「やらない」では大きな差なのでは?!って勝手に思ったりしています。
noteをやってみようと思ったのは、
一つは文字として書き出すことで、自分の頭の中を整理したかったから、
もう一つは、色々な経験を通して気づいたことを、周りにも伝えていきたいなって思ったからです。
5年くらい前から、スマホのメモに「学んだこと」とか「感動したこと」を書き続けているのですが、2年前に会社員を辞めてから、いろんな新しい経験に出会うことが多くて、そのメモが膨大なものになっていて。
メモに書いていたことを伝えるだけで感動されることがあったりして、それならもっとオープンにこの経験をシェアできたらいいなって思うようになったのです。
わたしがわたしのために書いたメモは、わたしが「終着点」ではなくて、わたしを経由して、誰かのための情報にもなり得るって気づいたのでした。
でも実際書き始めてみたら、それ以上に「書くこと」って自分と向き合うことだったんだなって。
自分が消化できていないことを、誰かにとって読みやすいかたちでまとめて書くってすごい難しいんですよね。自分がまだ言語化できないところは、本当の意味で理解できてなかったんだなって思い知らされています。
そして、書く「こと」を選んだり、そのトピックについて書き進めるたびに、「わたしってどういう人間なんだろう」「わたしをかたちづくるものたちって何なのだろう」ってまるで確認させられるように感じるのです。
ちなみに、わたしは以前マーケティングのお仕事をしていたので、
ということもできなくないけれど、
それ、わたしがやりたいことじゃないなって。
湧き出てくるままに、自分の書きたいことを書いてみたときに何が起こるのか、これからはちょっと実験みたいな気持ちで書いてみようかなって思っています。
書くのは楽しい。けれど、発信することは勇気がいる
書くのは楽しいんです。
書きたいことリストはまだまだ増えているし、書くことが止まることってほとんどない。
書くことで、そのできごとの違う側面が見えてきて、新しく気づくこともあったりして、書くことの魅力にむしろハマってきていたりします。
でも、編集するのにめちゃくちゃ時間がかかるんです。
メディアの運営とか、広告やWebサイトの制作ディレクションをやっていた職業柄、どうしてもその癖が抜けないのです。
そして、投稿ボタンを押すのは、毎回けっこう勇気がいります。
(もはや、毎回「校了!」という気持ち。)
自分としては、記事が書けたことにけっこう満足感はあるのですが、
そんなことがチラチラ頭をよぎるのです。
noteはまだまだはじめたばかりで知り合いが少ないけれど、それでも「自分」を書くことって正解がないので、やっぱりどこか確信がないというか。
「ここで編集終わり」っていうポイントを決めるのがすごく難しいのです。
そして、このnoteが自分の気持ちをいちばんそのまま書いているので、そういう意味でも、やっぱり緊張するなぁと思います。
自分にかかっていた呪いを解いていく作業
でも、ふと思ったんですよね。
これ、学校教育と会社員の呪いだなって。
わたしたち、自分を表現することって、ほぼやってきてないんですよね。
そんな世界にいたのに、突然できるわけないよなって思えてきて。
わたし、慣れてないだけだなって。
発信することの不安も、周りの反応の怖さも、
そんな思い込みから来てるのかも知れないなって。
もしかしたら、わたしは書く作業を通して、自分にかかっている呪いを解いていこうとしてるのかもなって思ったのです。
(そして、noteは想像以上に優しい世界でした。)
わたしは元々、学校も会社も普通に馴染めちゃうタイプ。不満がないわけではないけれど、システムの中でそれなりに生きられなくもない。
でも、そこにずっといる自分は想像できなかったんですよね。
なんとなく、このままいったらだいたいこんなことが起きるんだなって、わかってしまった。
この道は誰かがもう歩いているから、わざわざそのベルトコンベア乗らなくてもいいやって思ったんですよね。
そのとき、学校と会社員の箱から出てきたつもりでした。
でも、馴染めていたいうことは、ある意味そのシステムやルールも受け入れていたっていうこと。まだまだ自分の思考や習慣は、その中にどっぷり浸かっていることを思い知らされたのです。
いまは、自分だけの道を歩いているから、本気で先が見えないです。
「自分らしく生きる」って、まだ誰も歩いていない道を歩くってことだから、つまり未来の予測ができないんだって気づきました。
だから、先が見えている安心感みたいなのはない。
でも、何が起こるかわからないワクワク感は、間違いなくあるなって思っています。
「やってみたいけど、怖いこと」こそ、やるべきこと
何が起こるかわからない中で、何が指針になるの?
というと「自分の直感」と「起きてくるできごと」だけ。
(たまにわたしは星を読んでもらいますが。)
とはいえ、わたしにできることは「自分の直感を磨くこと」と「起きてくるできごとに向き合うこと」この2つしかないんだって気づきました。
その中で、いろんなことを超えてきたけれど、今わたしにとって向き合うものが「発信」なのかもしれないなって思っていて。
「やってみたい」と思えることは、何かしら自分に縁があること。
「怖いこと」は、それが自分にとって大切だから失敗するのが怖いこと。
そう思ったら、「やってみたいけど、怖いこと」って、自分が一つステップアップするために必要なギフトでしかないんですよね。
ちなみに、「嫌なこと」と「怖いこと」ってちょっと感覚が似ていて。
まだわたしも明確に見分けられないものもあります。
そのことが「(嫌だから)やりたくないこと」なら、無理してやる必要はないけれど、
「(本当はやりたいけれど怖いから)やりたくないこと」はちゃんと勇気を出して取り組む必要があること。
そうしないと、人生は進んでいかないなって思っています。
怖いことを超えていくプロセスのなかに変容が起きてくるとしたら、今目の前にあって、いちばんやりたいことは「書くこと」だなって思っているのです。
行動し続けたことで、変わっていく未来を見たい
これもきっと、わたしたちがかかっている呪いの一つ。
めざすゴールがないと、歩きはじめられない。
ゴールまで辿り着けなかったとき、すべてが無駄になる気がする。
本当にそうでしょうか?
昨年行ったシューマッハ・カレッジで教わったこと。
分離していると思うから、自分がやっても意味ないって思ってしまう。
けれど、誰もが本来つながりの中に生きているっていうことが、なんとなく体感で分かったから、小さくても、外に向かって行動し続けていれば、きっと何かが起きてくるって今は信じられているのです。
スマホのメモはわたししか見ないかもしれないけれど、noteは少なからず読み手の人とつながっているから。
書き続けたことが、少しずつストックとして溜まっていって、時間差でも誰かに届いたらいいなって思っています。
もう一つ、デンマークのフォルケホイスコーレに行って気づいたこと。
デンマークの人たちって、いろんなものを手づくりします。というか、日本人がすべてをお金で買おうとしていると言えるかも知れないけれど。
焚き火と飲み物とマシュマロとチョコとクッキー、さらにギターがあれば、めちゃくちゃHYGGEな時間があっという間にできちゃいます。
そういうのと比べたときに、なんだか日本のエンタメって、なんかお金を払うものが多いような気がします。
シューマッハ・カレッジでも、創設者のサティシュが教えてくれたのですが、わたしたちは本来「創り手」なんですよね。
「アーティストであれ、消費者になるな」って何度も言われました。
だから、自分の手で、まず自分の言葉を綴ることからはじめようかなって思ったのです。
そして、できる範囲で続けてみようかなって思っているのです。
というわけで、
今は、書きたいことがなくなるまで、ひとまず色々書いてみようかなって思っています。
一つの目標は100記事書くこと。
そのころには、また少し違う景色が見えていたらいいなって。
そして、この記事を書いているうちに、わたしが自分にかかっていた呪いみたいなものも、解けていけばいいなって思っています。