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絵文字コミュニケーションの困難さ
noteの記事は、どんな書き手のどんな話題であれ、いつも落ち着いて読める。すんなり頭に入ってくる。それは、投げつけるような感情的書き込みは皆無で、皆時間をかけて言葉を選んで書いているからだろう。これはSNS全盛のインターネットコミュニケーションにおいて、とても貴重な場所だと思う。
そしてもうひとつ感じるのは、絵文字に煩わされず、気を散らされずに読める文章の有り難さ。
絵文字が登場したのはいつ頃だっただろう。最初は記号の組み合わせのみで、:)のようなシンプルなものだけだったと記憶している。メールの文末にたまに使うくらいだった。インターネット接続出来る場所は、屋内の固定PCがほとんどで、今考えると、スピード感がまるで違った。ゆっくり考えて返信が出来たし、即レスポンスのプレッシャーもなかった。
どうもスマホやタブレットの登場から、スピード感が変わって来たように感じる。そして、文章でのコミュニケーション法も、すこぶる変化した。対面の現実とは違う、ネット専用のコミュニケーション法が、テキストチャット用のコミュニケーションが、発展していったように思う。絵文字はその代表格ではないかと思う。
SNSなどの絵文字が散りばめられた文章は、それが標準装備になった機器を所有しているからこそだ。そして皆熱心に使っていることから考えても、ネット上のコミュニケーションの円滑さに、絵文字が貢献しているのだろう。
ただし、世の中にはいろんなタイプの人がいるので、絵文字に煩わされ、うんざりしている人も一定数いると思われる。想像するに、読むこと書くことが真に好きな人ほど、こういう傾向があるのではないか。
絵文字の絵から、具体的な何かを汲み取るのは難しい。とりわけ顔の絵文字は判断がつかないことがある。文章がほとんどなく、絵文字のみのレスポンスなど、本当にどう受け取って良いのか分からない時がある。対面で会話するときには何の支障も感じないのに、絵文字コミュニケーションに巻き込まれた瞬間、コミュ障になる。
文章の中に頻繁に登場するカラフルでポップな絵文字は、情報を正しく受け取れるどころか、あちこち気が散り、大事な点が何も頭に残らない。どういう仕組みで、これが円滑なコミュニケーションに繋がっているのか、想像が出来ない。絵文字コミュニケーションに適応し損なった人間ということだ。
そもそも絵文字は、文を補完するものとして機能している訳ではなく、単に彩りを添えるだけの、オマケのようなものなのだろうか。或いは、絵文字で装飾しない文は、礼儀知らずということなのだろうか。または文章が面倒なときの、代替手段のようなものだろうか。皆忙しいから、文字を読ませる手間を省くためという、気遣いだろうか。
絵文字が標準装備となると、言葉はその役割を縮小せざるを得ないのだろうか。人間がこれだけ時間をかけて、美しくまた論理的に発展させてきた言語体系は、簡略化されていくのだろうか。
読むこと書くことが好きな人にとって、また言葉が大事な役割を担っていると感じる人にとって、この絵文字にコーティングされたネット上のコミュニケーションは、ときに寂しくなる。ミレニアル世代の自分でさえ、こう感じるのだ。人生の大半、手書きで手紙を書き綴ってきた人なら、もっと思うことは多いだろう。
言葉に価値を感じるのは、そこに時間が詰まっているからだ。誰かが時間をかけて選んだ言葉だからだ。ひょっとして、何度か書き直しているかもしれないし、色々と悩みつつ書いたものかもしれない。だから、例えちょっと意味がずれていたり、文法が適切でなかったとしても、絵文字をポンと貰うより、嬉しく思う。
言葉には、何世代にも渡り受け継がれてきた、人間の共通の経験と感情と知恵が含まれている。でもいつからか、文章で言葉を贈り合うことさえ、贅沢なコミュニケーションとなってしまったのかもしれない。