黒い塊と赤いバンダナ
【ナースのはなし】
その日、意識を失った状態で搬送されてきた60代の男性。
何日も前から倒れていたのか、糞尿にまみれ、救命センターの初療室は一気にむせ返るような臭気で充満した。
救急隊からの申し送りを医師と一緒に聞く。
一人暮らしの男性。
既往歴不明。
出勤せず、連絡が取れないことを不審に思い訪問した同僚により発見。
ふむふむ。
様々な可能性を考え、その後の検査や治療計画を考える。
申し送りが終わり、さて、私も輸液の準備でもしようか…とその場を後にしかけた時分。
「あの…これ…。」
救急隊員から黒い塊をそっと手渡された。
ヅラだった。
財布、携帯、カバンや靴など…を手渡されるのには慣れていた。
が、人様のヅラを手に乗せるのは初めての経験だった。
一瞬怯んだが平静を装い、じっくり見てみたい衝動を抑え込み、ひとまずビニール袋に入れて処置に加わる。
血液ガス分析(動脈血ですぐに結果の出る血液検査の一種)での血糖値は700㎎/dlを超えていた。
わーお、すごい数字。
(通常の人の血糖値は70~140がいいところ)
結果。
彼は、一命を取り留めた。
輸液によって脱水と高血糖が補正されると意識を取り戻し、その後は血糖コントロールのための入院がしばらく続いた。
さて。
黒いアレのその後。
私は彼の意識が戻る前に、床頭台の扉の中にそっとソレをしまっておいた。
おそらく彼は目を覚ました瞬間、ソレが頭に乗っていないことに気付き、床頭台を開けたときにすべてを悟った事だろう。
彼は入院中ソレを装着することは一度もなかった。
本来の姿を知っている私達スタッフの前では、光るソコを見せることよりもソレを使うほうが恥ずかしかったのかもしれない。
その代わり、彼は入院中、常に赤いバンダナを巻いて過ごしていた。
むろん、私達にとっても何もつけないありのままの姿のほうが彼らしく見えたのだけれど。
私は今も、赤いバンダナを見る度に彼のこと、そして、あの日初療室で手に載せられた黒い塊の事を思い出す。
※ちなみにトップ画像は、韓国留学中に撮影したものです。
下宿の近所にあったヅラ専門店のショーウィンドウ。