白村江の戦いについて
白村江の戦いについて解説していきます!
1、背景(660年)
唐「618年に建国して以来着実に勢力を伸ばしてこれましたなぁ。」
新羅「そうですなー。655年に高句麗、百済から攻撃されたときは非常に危うい状況でしたが、唐の援助で立ち直り660年には百済を滅ぼすことができました。ガハハハッ。より一層友好な関係を深めていきましょうぞ!」
百済では復活に向けて動き出していた。
百済の生き残り「よくも我が百済を滅ぼしてくれたなァ!日本に援助してもらい百済の復活を目指すぞー!」
日本では、645年の大化改新に伴い、中大兄皇子が権力を握っていた。
中大兄皇子「唐とも友好な関係を築いていきたいが、百済も捨てがたい。よし、私は決めた。約4万人の部隊で百済を救済する。」
こうして663年、白村江の戦いが起こった。
2、経過
新羅・唐連合軍「まず、百済軍の本拠地である周留城(スル)に攻撃をかける。かかれー!!!」
日本軍「部隊を二つに分け、一つを新羅攻略に。もう一つは周留城の救援に向かうぞ!」
~周留城近くの入江である白村江~
日本の周留城救援部隊「まずい!敵の水軍が待ち構えている。」
唐の水軍「引っかかったな!ウハハハッ!攻撃開始!!!」
日本の周留城救援部隊「うわわわわわわぁ!!」
百済の周留城防衛部隊「もはやこれまでか」
こうして周留城は落城し、海は日本軍兵士の血で真っ赤に染まったという。
3、結果
百済は完全に滅亡し、日本は朝鮮半島における拠点を失った。また、日本は九州各地に城を築くなど唐・新羅への恐怖心が増大していった。
4、豆知識
唐の楼船:古代中国の船で全長約60メートルあり、数百人の兵士を乗せることができた。(勝てるわけねぇ)
旧名の覚え方:辰韓→新羅(両方とも「し」で始まる)
馬韓→百済(馬が百匹いるイメージ)
大化改新の時の左・右大臣の覚え方:
左大臣→阿倍内麻呂(巨人の阿部慎之介は左打ち)
右大臣→蘇我倉山田石川麻呂(ヤクルトの山田哲人は右打ち)