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消えていく速さが怖くて、文章を残した
好きだった人のことは忘れられないものです。
それはもう痛みなんて感じないほどこすられ続けて、それでも心のどこかにずっとあるんです。それがまだ痛みを伴うかどうかは、年月が決めてくれる気がします。
以前書いたnoteでは、その記憶の薄れに抗いたいほど好きだったものたちをたどりました。
いつもは、傷口が開いた時に文章を書きます。そのままでは悲しみが溢れて止まらなくなってしまうような時に、自分を見つめて落ち着きを取り戻したくて言葉を探すことが多いんです。
でも、先日書いたnoteは、そういう気持ちとは違いました。
ああ、なんだか好きな文章がかけたな、という程度の気持ちで、それは苦しさとかとは無縁の感情でした。
自分が、あまりにも傷ついていないことに気づいてしまいました。
人との関係を一つ失っておいて平然としていられる私ではなかったはずなのです。なのに、そんなことなんてなかったように、私は忘れていることを忘れて生きていました。
きっとこの文章は、本当に忘れてしまう前に今ある記憶を残しておきたかったんです。人と過ごした時間を簡単に忘れてしまうほど、私は自分の時間を安売りできないのかもしれません。
どうでもいいような日常の写真でも、貼り付けておかないと2020年のアルバムはすかすかになってしまうから。23歳の自分がどうやって生きていたのかを残して置ける場所は、instagramでもfacebookでもなくて、きっとnoteしかなかったんです。
思い出が心に刻まれていかないのなら、無理矢理でも文章で残しておきたかったのかもしれません。
彼が嫌いだったわけではないし、あたたかかった時間のことを消したくはありません。
何度でも会いたいといわれること、一緒にいたいといわれること。ダンボールの机の上に君の特茶と私の麦茶。19階から見た夜景。ハグすると苦しいほど離してくれないところ。たこ焼きがうまく焼けなくて、焼いている私の隣でひらすらへこへこしていたところ。砂浜でただ海を見ていた2人の時間。公園にシートを敷いて、キャッチボールしている男の子たちを見ていた夕方。ある日私から握ったら、それからは絶対に離してくれなくなった手。私のお土産がいつまでも飾ってあった部屋。いつ振り返っても見えなくなるまで大きく手を振り続けてくれる小田急新宿駅の改札。
どんなにカップルの真似事をしても、最後まで寄り添えなかった私達。
優しい時間をすべて切ったことに、何の気持ちも抱かなくなってしまった私。
ありがとう。本当は最後にきちんと伝えたかったです。
離れるということに必死で、その上ありがとうなんて伝えることは自己満足のようでできませんでした。そんな言い訳を重ねて、結局伝えることのできなかった感謝がもう一生届かないところに置き去りにされてしまいました。
あの人を忘れていく自分が怖くて、文章を残していた。
傷つけた相手の幸せを願う、そんなことが許されるのかな。
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