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この恋に、あの街の名をつける。
誰かにとっての特別が、どこにでもある恋の終わりみたいに流れ着いて溜まっている街。
何人もの失恋のカタログを、私は寂しい夜の気休めのように眺めてしまいます。
失恋の似合う街、東京。私には、そう見える。
この夜景が淋しく、凛として、そして景色がにじむほどに美しく見えるのは、私が孤独だからなのでしょうか。
後、2時間と14分。
25歳を迎える今夜は、ひとりでこのカタログのページをめくるようです。
朝から何度も思い浮かぶあの顔を、早く酔いに任せて忘れたい。
適当に流した洋楽さえ、誰かとつながる記憶になる。
弾けるシャンパンの泡くらい、私達の恋はきらきらと儚く愛おしいものでした。
絶え間なくグラスの中で生まれては消えるその泡から、私は目を離すことが出来ないのでした。
池袋 身体を奪って、恋を失った
終電から逃れて、路上でお酒を煽る若者たち。
昔ここで、あんなふうに飲んだ夜があったっけな。
チラチラと水が出る広場の名前はよく知りません。
知らないまま何年も過ぎて、スクリーンみたいな背景とか思った以上に噴水の水に濡らされてしまうこととか、そんなこともまた忘れてしまうんです。
池袋にはめったに来ないから。
馴染みのない街は、他人の私にいつまでも無関心でした。
そして私も、記憶の断片がここで始まるとは思っていませんでした。
「お酒が好きです。」
私がそう言うと、彼は驚いたように一瞬目を大きく開けてから、困ったように笑いました。
「私、すこし前までアプリで遊んでいました。」
今度こそ彼は目をしばたいたまますこし静止します。
「いや、」
「そっか」
一通りの独り言を並べて黙っている彼をただ見つめてみます。
「それは、」と話しはじめた彼は、「やっぱりなんでもないです。」と目をそらしました。
大衆居酒屋の席は、狭いのです。
油でややベタつくテーブルを挟んだ私達は、膝を突き合わせるように相手を覗き込んでいました。
彼の反応を楽しんでいたわけではありません。
ただ、もう何かが終わった合図が聞こえた気がしました。
私はもう純粋な気持ちだけでときめくことを放棄していました。
その彼のことは、久しぶりに好きかもしれないと思ったばかりでした。
元カレを引きずった私の心がうんともすんとも動かなくなって1年以上。
すっかり臆病になっていたところに、ふと入り込んできた人だったのです。
もう自分から人を好きになんてなれない。でもそんな私が、再び浮かれたり、不安定になったりする自分を認めてもいいと思える人でした。
落ち着いた雰囲気や、読書という共通の趣味に油断していたのかもしれません。危うく心を持っていかれてしまうところだった。
でも、その匂いを知っていました。
私には彼が遊び人だと分かってしまいました。昔、自分からもしていたその消せない軽薄な臭さ。
ほのかに温かくなっていた恋心は、急速に冷えていきました。
遊びなら遊びにしてしまおう。
ハンドルを切るときは思い切り。
それが東京で遊んだ女の最後のたしなみかもしれません。
遊びになった私の恋は、結局飲まれなかった缶チューハイのような安っぽい味に変わり果てました。
「また、今度こそはずっと一晩一緒にいたい。」
そう言われた山手線の帰り道。
その揺れや、身長の高い彼を見上げる角度や、会話の断片を覚えています。
「うん。」
もう敬語を使わなくなった彼と共有している温度。彼の育ちの良さそうな柔軟剤の香り。
それは想像ではなく、感覚として私の記憶に刻まれていきました。
電車での距離よりもずっと近くに感じた彼の肌や汗や苦しげな表情までを、私の身体はしっかりと刻み込んでいたようでした。
あの夜、彼の前で急速にしぼんでいった恋心と、それでも魅力的だった彼と。
安っぽい数時間の顛末を見届けた他人の池袋は、やっぱり私には馴染みのない街のままでした。
いつか噴水の広場が別の記憶に塗り替えられる日が来るのかな。
それまで、私はあの夜の記憶をどこかにしまったまま生きていくのかもしれません。
ばいばい、池袋。またいつか。
渋谷 失恋ですか、と美容師さんは聞いた
「20cm、切ってください」
鏡に映る自分をまっすぐに見つめて、考えてきた言葉を一息に言い切りました。
「顎くらいかな、それより下?でいいですか?」
3回目になる担当の美容師さんは、初対面とも気を許してるとも言えない距離の敬語でわたしの毛先をいじりました。
顎下のボブなんて、何年ぶりでしょうか。
大学2年生くらいまで、高校生の延長のようなボブをしていたのが私の中では最後の記憶です。それからは鎖骨あたりで揺れるくらい、伸びてもそこに戻って、当たり障りのない女子を楽しんでいました。
「じゃあ、切るよ。」
一気に入れられたハサミは、咄嗟に切りすぎた、と思うのには十分な勢いでした。
そして彼は少しの間をおいて、穏やかに聞きました。
「失恋とか、ですか。」
「失恋ではない、んですけどね、気分転換?」
そう笑った私は、やっぱり傍から見たらそう思えるんだなという驚きと、聞いてほしいような話でもないなと言う面倒臭さを半分はんぶん、感じたのを覚えています。
髪を切った理由。ただ、毎日LINEをする男の子をひとり、失ったというだけでした。
「そっか、すみませんね。こないだも高校生に聞いたら、いまどきそんな理由で切る人いないよ〜って言われちゃったばっかりなんですけど笑。」
そうやって遠慮がちに笑う美容師さんには、好感が持てました。
失恋ではないというのはきっと本当で、その証拠に私は寂しがったりしていませんでした。
恋でもなく、彼氏でもなく、明日連絡がつかなくなってもいい人でした。好きと言ってくれても、私にはそれは返せない相手でした。彼の好きはあまりに多くの女の子に配られすぎていたし、私も優しい人を利用していただけだったから。
人に甘えるのがとても苦手な私が、気を使わずに頼るにはちょうどよかったのです。だからむしろスッキリしたと言えるほど、私にとっては重荷になっている人でした。けれど、傷つけてしまったという痛みだけは、ほんの少し残っていたのです。
傷つけない。それが私が自分に課しているルールでした。
でも、誰かを傷つけてしまいました。そういうかたちでしか終われなかったのかな。そう少しだけ思ってしまうことが、未練でもなく悲しみでもなく、私に髪を切る必要性を与えていました。
自分の中で、今日までと今日からのけじめを付ける。どれだけ優しくありたくても、結局は自分のために人を傷つけてしまうことの痛みを、背負おうと思いました。
そして、もう遊ぶのはやめにする、そのけじめでもありました。
結局、本気で向き合うことのない関係性からは、何も生まれないんです。
その時に必要になって依存して、でも踏み込むのは嫌だからこころの大切な場所はお互いに明け渡さない。そんな関係性の先には、喜びも信頼も生まれないのだと学んだ10ヶ月でした。
少なくとも私がいちばん好きだった人は、たくさんの愛情も自信も残してくれました。
でも、今回、彼との時間は何だったんだろう。
私達はぬるま湯のように、孤独を薄く塗りひろげあいました。側に誰もいないという絶望はなかったけれど、どんなに一緒にいても独りぼっちじゃなくなることがなかった。
それが、苦しかったんだと思います。唯一の存在でもないし、相手の唯一になりたいと思わない人と、なぜか積み重なっていく時間。一緒にいればいるほど、自分の矛盾に向き合わなければいけないという混乱。
それでも離れないでと求められることの、優越感と罪悪感が私の決断を先延ばしにさせました。
「失恋ですか」
そうです、と答えるには私はあまりにも冷静でした。
ちがいます、と答えるには彼との時間はあまりに長かった。
世の中には気分転換くらいのライトさで、自分の残酷さに向き合わなきゃいけないこともあるんですね。
慣れないほどスースーする首元に、甘ったるい白のマフラーを巻いて、私はこの冬を乗り切るんだと思います。
あの人も風邪をひかないといいんだけれど。
下北沢 私が友達以上だったことはないんだね
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