あたためて、ほどく。その文章はまだ私には書けない
素敵なエッセイを読みました。誰のことを傷つけることもなく、気取りもせず、そして読み終えてほっと心をほどいてくれるような文章でした。
そしてそれを読んだ時に私は、ああ、自分にはこれは書けないな。そう思ってしまったんです。
私だって肩肘をはらずに生き様を文章にしたいと思っているし、言葉で誰かを攻撃したいわけではないし、誰かを勇気づけられたらそんなに幸せなことはないんです。
でも、そもそも若造の私とは根本的に何かが違いました。
そこにある素朴な言葉の重みや、心に溶け込むように選ばれた優しい言葉。
私が飾りのついた言葉をどんなに奮わせても、かなわないと思いました。
そして、ただ年を重ねて色んな経験をすればそんな文章が自然と降りてくるのではないとわかっていました。
その文章に丁寧に積み重ねられていたのは、きっとその人の謙虚さだと思います。
でも、生きてきた分の自信も感じる。
その調度人肌くらいのあたたかさが、文章をもっと優しく強くしていました。
私はいつそんな文章をかけるようになるんだろう。
きっと今の私の文章には、若くて無鉄砲で傷つきやすくてわがままで、自分本位に生きても叱られない24歳の女の子が詰まっています。それはそれで今しか書けないものだとも思う。だから他のものと比べてわざわざ悲しくなったりはしないようにと思って日々書いています。
でも、私もあの優しい強さがほしい。
自分以上に守りたいものをもてば、母になれば、大事な人を失えば、身についていくものなんでしょうか。
幼稚園児が赤い風船を欲しがってダダをこねるように、私はいいないいなと言ってみます。ほしいなほしいな。いいないいな。
でも、そんな自分の子供らしさを突きつけられるだけです。
今はきっと、ずるずると引きずった恋愛とか、バカみたいに飲んだお酒で記憶をなくした夜とか、そういう青春ののこりかすみたいな文章ばかりを書きます。
私が宝物のように感じてきたくだらない時間が、もう消えかかっているのをしっているから。
でもそれはくだらなさとかだるさとか、そういう価値です。陳腐だからこそ誰もの中で輝いている、遠い記憶。別に人の心を温めるわけじゃなくて、それは少しだけチクリと胸を刺して、そこから思い出したように甘い液が流れてくるんです。
だから私は素直に憧れました。
純粋に人を勇気づけ、心を解けるその言葉を持っている人に。
この気持ちをしっかりとっておきたいと思います。自分が書いている言葉がどんな香りや質感なのか、本当には知らなかったような気がしたんです。
暑い夏に寄り道したサイダー。飲み会後にだらだらたむろして腰掛けたガードレール。
そんな色がしている。今の私の文章。
でも、ガーゼのタオルに包まれた乳児みたいな、おひさまをいっぱいに吸い込んだおふとんみたいな、そんな言葉も紡げる人になりたいと心底思います。
優しい強さをもてる人に。
そんな風に年を重ねていきたいと思いました。