フロ読 vol.13 井筒俊彦『意識の形而上学』 中公文庫BIBLIO
恩師よりオススメの一書。本当は座を正して机上で、とすべきだが、待ちきれずにフロに持ち込む。
パラパラっとめくってまずは図示に見とれる。昔、空海の弁顕密二経論を図で示そうとしたことを想い出しつつワクワク。
古いテキストを現代的視座から全く新しく読み直す…大賛成。哲学的思惟はいつだって可能性そのものだ。
『大乗起信論』においては、「心」とか意識は内的機能であるにも関わらず、空間的領域的に構想するとのこと。この構造化に伴って「心」は時間性を超越して有限、無限の空間的拡がりとして表象される…しょっぱなから、よっ東洋思想という感じ。これでベルクソンは眉を顰めるだろうと書いてあるが、ん?エラン・ヴィタールは近い発想かと思っていたので、少し戸惑う。どのあたりがベルクソンとの齟齬に当たるのかは要勉強だな…。
『起信論』は思惟の進み方が単純な一本線ではなく双面的・背反的・二岐分離的…ステキです。先日伺った大澤真幸さんのお話にも、「そもそもが事象は『1』ではないと日本は考えていた。日本は『2』から始まる」という言葉に衝撃を受けたばかりなので沁みる…。「蛇行性」、良い言葉だ…。
たまたま職場の後輩(元教え子)が西田幾多郎を卒論に選んだと聞いたばかりだからか、「絶対矛盾的自己同一」が頭の中を飛び交う。
真如=無限宇宙に充溢する存在エネルギーの無分割、不可分の全一態。絶対の「無」、「空」。
しかし、真如は一切の事物の本体。乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てが現象する次元での「真如」でもある。「無」でありかつ「有」。いや「不易流行」か。
「無明」すら「真如」! 煩悩即菩提。色即是空。空即是色。
それでいて「真如」はイオンみたいにプラスマイナスの属性を持つ。現象態と非現象態に分けて、対立しながら同時成立。ああ、絶対矛盾的自己同一…。逆方向に向かう二つの力の葛藤のダイナミックな磁場…井筒先生のこの言葉だけでのぼせそうになる。
「アラヤ識」は「真如」の非現象態と現象態の両者をつなぐ中間体。「真如」が「無」から「有」へと乱れ散ろうとする。即今、此処、自己…喝!となるのが禅か。そこを捉えろというのか。
「不生滅と生滅と和合して、一に非ず真に非ず…」。この辺で頭がオーバーヒート。もうフロにはいられない。今度は今すぐメモらなきゃ。私のアラヤ識が散ってしまうよ。フロという「無」から居間(いま)という現今(いま)に移るまでに、浮かんだ諸々がボロボロ逃げていく。しまった脱衣所こそがアラヤ識であったか…。