特別な物語:ディーリア・オーエンズ著『ザリガニの鳴くところ』を読んで
この時期になると、一年の振り返りをしたくなります。
特に振り返りたくなることが多い一年でしたが、それはさておくとして、読書のほうでも今年読んだ本のなかで印象に残ったものを読み返すようにしています。
今回読み返したのは、ディーリア・オーエンズ氏の『ザリガニの鳴くところ』です。
本作は帯にあるとおり2019年にアメリカで最も売れた本であり、読んだことはなくとも名前は知っている、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
著者のディーリア・オーエンズ氏は動物学者であり、そちらの分野での著書はありますが、小説は本作が初めてとのこと。それでこんなに素敵な作品を書けるのだから驚きです。
本作の主人公はカイアと呼ばれる少女。彼女はノース・カロライナの湿地に暮らすクラーク家の末娘なのですが、酒に酔っては家族に暴力を振るう父に耐えかねて、母や姉、兄が次々と家を出て行ってしまいます。そしてついには父まで家に帰ってこなくなり、カイアは幼くして独りで生きなければならなくなります。
独りで生きるといっても、何から何まで独りきりというわけにはゆきません。ときには街に行かねばならないときもあります。しかし街の人々はカイアのことを『湿地の貧乏人(トラッシュ)』や『湿地の少女』と罵って差別します。
環境の過酷さから街の開発に適さない湿地はアメリカの開拓の歴史から取り残された土地であり、そこに住むカイアたちと街の人たちの間には経済的な格差が生じていました。本文に次のような記述があります。
"評判の悪い湿地はというと、反逆した水夫や追放者や債務者のほか、意に染まない戦争や徴税、法律から逃げてきた者たちなど、種々雑多な人間をすくい上げる網になった"
このほか、逃亡奴隷も湿地へ流れ着いたとあり、湿地に住んでいた人々はすなわち、湿地に住むしかない人々でもあったわけです。そんな彼らは、常に街の人々から差別を受けていました。
カイアも街へ行くたびに心ない言葉を浴びせられます。そうかといって家にいると街の少年たちが度胸試しと称して彼女をからかいに来るのです。漁師の息子であるテイトは数少ない味方で、学校に通っていないカイアのために読み書きを教えてくれますが、やがて大学進学のために街から去ってしまいます。また孤独になってしまった彼女。それでも生きなければなりません。本作はカイアが差別に耐えながら、ひたむきに生き、成長してゆく物語なのです。
いっぽう、街の青年が変死体で発見されるという事件が起こり、これがカイアの物語と複雑に絡み合ってゆきます。つまり本作には少女の成長の物語とミステリーという二つの軸があるのです。
そして何よりも魅力的なのが、その二つを包みこむようにして存在する湿地の美しい描写です。
私も以前湿原を訪ねたことがありますが、開けた土地に水のわだかまりが点在し、日の光を照り返している光景を今でも鮮明に思い出します。まるで光の原液を注いだかのように瑞々しく輝く水面の美しさ、そういったものが物語の随所に織り込まれています。また動物学者ならではの生き物の描写も素晴らしく、カイアに感情移入し、傷ついてしまった心を癒やしてくれるようでした。
コロナ禍で閉塞している時期に読んだこともあって、いろいろなことを考えさせられる作品でした。気になった方はぜひ手に取っていただけると幸いです。