小説『幸福虫』第五話
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隣町の事件の噂はすぐに広まった。
人々の反応は概ね二つに分かれた。一つは、どういう理由であれ人を殺すのはよくないという考え。もう一つは、不幸な人間は殺されても仕方がないという考えである。意見が割れる理由は、幸福虫は不幸な人間の脳内で発生するというデマを信じているかどうかだ。デマを信じない人間は殺しはよくないと声を上げ、信じる者がそれに反論した。
ネズミたち当事者がそういった議論に加わることはない。いつだって強者が弱者の生殺与奪の権を握っている。弱者である不幸者にできるのは世間の慰み者になるか、あるいはじっと息を殺しているかのどちらかだ。
巷ではほどよく幸福な人間こそ最も価値があるとされる。幸福度測定のスコアが四十から五十五の間にあるような人間たち。そういう人間に限って幸福虫に侵された者たちを悼んだり、不幸な者たちを哀れんだりと、他者への共感で心を忙しくしている。だが不幸な人間に同情し、不幸狩りを悪だと断じる者たちでさえ、回収人には決して近寄ろうとしない。倫理だとか弱者救済だとかいう言葉は、この町では大した意味を持たない。
極楽党がこのあたりまでやって来たという話はいまのところ聞かないが、それも時間の問題だろう。ここは隣町と比べて自警団の警備も手薄で、町全体の元気が少なく、不幸な人間が多い。極楽党にとっては絶好の狩り場のはずだ。
ネズミとモグラは猿田に命じられ、町の巡回に同行していた。極楽党員を直接見たことがあるのはネズミだけなので、住民のなかに党員が紛れこんでいないか確認せよということらしい。モグラはもしもトラブルがあったときの保険だ。
徐行運転するバンの助手席から、通行人の顔を食い入るように観察する。あいつは怪しくないか。たぶん違います。こいつはどうだ。これもたぶん違うと思う。運転席の猿田が質問し、ネズミが答えた。道中、メリークリスマスという言葉が書かれたポスターが何枚か貼られていたので回収もしておく。そういえば今日はクリスマス当日か、などと考えながら、ネズミは丸めたポスターを回収袋に押しこんだ。
「きっとおれじゃ役に立ちませんよ。党員に会ったとはいえ、相手は学生帽を目深に被ってたんだ。顔がはっきり見えたわけじゃない」
窓の外を眺めながらネズミがぼやいた。
「だとしても、肌で感じるものがあるはずだ」
「何となく怪しい、みたいなことですか。だったらこの町の人間はみんなクロだね。こいつら全員、回収人は死ねと思ってますよ」
「過ぎた悲観主義は不幸を呼ぶことをおまえは知らないらしいな」
「二人とも、喧嘩してる場合じゃないぞ。真剣に探さないと」
後部座席のモグラが間に割って入る。舌っ足らずでゆっくりとした話し声に、張り詰めていた空気が少し和んだ。
町は南北に走る国道を中心に東西に分かれ、東側が住宅街に、西側が商業区域になっている。東側の巡回を終えた一行はそのまま西側に足を踏み入れた。シャッター商店街のなかには半ば廃墟と化した建物も多く、自警団がほとんど見回りに来ないせいでゴロツキたちの溜まり場になっていた。そういうところに極楽党の人間が潜伏している可能性はじゅうぶん考えられる。
「猿田さんは極楽党についてどう思ってるんですか」
ふと気になって、ネズミは訊ねた。
「ただのテロリストだ。迷惑千万だよ」
「僕ら回収人がやられちゃったら、猿田さんの収入もなくなっちゃうもんね」
モグラが笑いながら言う。
「そうでなくても、優秀な回収人が入ってきたらおまえはクビだ」
「そんなあ、酷いよ猿田さん」
二人のやり取りにネズミは思わず笑みをこぼした。猿田は回収人のことを金稼ぎの道具くらいにしか思っていないが、それでもいちど手に入れた道具は簡単に捨てたりしないところだけは好感が持てる。日ごろ回収人に厳しく当たり、少しでも多く回収させようとするのは自分が稼ぐためでもあると同時に、歩合制である回収人の日当を増やすためでもあるということをネズミは知っている。いけ好かないが信頼はできる男だ。あれだけ怒られてばかりいるモグラが存外猿田に懐いているのも、そういう人情の部分が垣間見えるからかもしれない。
「もしもこの町で不幸狩りが始まったら、おれたちはどうなるんですか?」
ネズミはずっと不安に思っていたことを質問した。
「さあな。いまのところ上からは何も言われてないが、最悪の場合は解散かもな」
「僕らみんな無職になる?」
モグラの顔がにわかに青ざめる。
「あんなやつらがいる場所で回収業務なんて無理だろう。あまりにも危険すぎる。ほかの町に回収人の空きがあれば、そっちに異動させるって方法もあるんだが」
「よそにも極楽党の噂は広まっているはず。おれたちみたいな不幸な人間をわざわざ迎え入れてはくれないでしょう。それこそやつらを誘いこむきっかけになる」
「猿田さんはどうするの?」
モグラの質問に猿田は、そうだなあ、と考えこんだ。
「ここを出て行くことになるだろうな。回収人がいなきゃどうしようもないし、そもそもおれだって幸福度が特別高いわけじゃない。案外、やつらに狩られる側かもしれん」
猿田は冗談めかした口調で話すが、その表情は明らかに引きつっていた。
いつも回収業務を行っているエリアを抜けて、旧商店街と呼ばれる区域に差しかかる。このあたりは商業区域の中で最も古く、また最もさびれたエリアである。営業している店は数えるほどしかないが、そこすらもシャッターが閉じられていることが多く、もはやシャッター商店街というよりもゴースト商店街の哀愁を漂わせている。手を叩けば諦観の響きが聞こえてくるような長いアーケード。その照明はすでに切れているのに長いこと交換されず、いつも薄暗く陰気な雰囲気に包まれている。
静寂に包まれたアーケード街を徐行していた車は、しかし突然停止した。
「おい、あれを見てみろ」
猿田が指さす先には曼荼羅が刺繍された巨大な幕が下がっていた。暗がりのなかに浮かび上がる毒々しい極彩色。中央に鎮座する仏様の穏やかな表情がかえって不気味だった。
どこからか音楽が聞こえてきて、ネズミは息を呑んだ。
ジングルベル。ジングルベル。鈴が鳴る。
途端に、物陰から学生帽を被った者たちがぞろぞろとあらわれる。右手には警棒を、左手には携帯式の測定器を構える彼らは、一斉に車の方を振り向いた。
「逃げろ」
ネズミが言い終えるよりも先に、猿田は車を素早くUターンさせた。アーケード内に怒号が渦を巻く。警棒を振りかざした極楽党員たちが必死に追いかけてくる姿がバックミラーに映る。ネズミは頭がくらくらしてきた。隣町で見た惨状がフラッシュバックする。
信号無視を繰り返し、何度も事故を起こしかけながら、バンはどうにか東側の住宅街まで逃げ延びた。追っ手がないのを確認してから、猿田は車を路肩に停止させた。
「どうしよう」モグラは激しく動揺していた。「極楽党はもうこの町に入りこんでたんだ」
「まずいことになった。あいつら、旧商店街をアジトにするとはな。確かにあそこなら町の人間の目も届きにくい」
「あそこにもといた連中はきっと全滅でしょうね。次はおれたちを狩りに来ますよ。どうします?」
「ひとまず今日の回収業務は中止だ。ネコの持ち回りは?」
「三丁目の路地裏です」
「これから迎えに行く。全員家まで送ってやるから、おれから指示があるまで待機しておけ。いいか、何があっても外には出るな」
猿田は三丁目方面へ車を走らせた。
先ほど旧商店街で出会った極楽党員。そのなかに一人だけ白い制服を着て、帽子を被っていない男がいた。ほかの党員とは明らかに異なる風格。誰もが怒り狂ってネズミたちを追いかけるなか、彼だけはライオンのたてがみのような長い髪を無造作になびかせながら、腕を組んでこちらを見つめていた。
獅子堂。その名前が脳裏をよぎる。いや、そんなまさかな。ネズミはすぐに否定した。保護区の人間が、こんな場所にわざわざやって来るなどあり得ない。
【自作まとめ】