【短編小説】ヒステリー

 癇癪を起こしているヒステリックな奴に突然絡まれる程うんざりすることはない。あの土曜日の午後もそんなことが起こった日だった。

 その日は仕事を早く切り上げ、一直線に街の中心部にある酒場へと向かった。その酒場へ行くのは初めてだった。そこは同僚たちの間で沢山の種類のバーボンを取り揃えていることで有名な場所だった。故に、いつか機会があればその酒場で様々なウイスキーをたらふく呑んでみたいと思っていたのだ。

 まだ日も明るいうちに来たので、店はがらんとしていた。初老のバーテンダーだけがカウンターの中でせわしなく手を動かしていた。私はカウンターの一番奥の席に座ると、バーテンダーにボイラーメーカーを注文した。注文の際、ビールに入れるバーボンはジムビームに指定した。

 バーテンダーは手際よくボイラーメーカーを作り、僕のもとに運んで来た。最初の一口をぐいと勢いよく飲み下す。ビールのほろ苦さの中にバーボンが持つ甘みとオーク樽の香りとピリッとした刺激が現れた。続けてもう一口飲んでしばらく待つと体内に温かいものが巡っていくのが感じられ、次第に脳内にモヤがかかったような心地よさが広がる。最高だ。仕事の後の一杯というものは味だけでなくこれらの感覚も揃って初めてその神聖なるものになる。それはまさに儀式的だ。

 ボイラーメーカーを飲み終えると、フォアローゼスのウイスキーソーダを注文した。バーテンダーの手際のよい仕事ぶりによってそれはまたもすぐに私の席に届けられた。ソーダが口腔でパチパチとはじけ飛び、フォアローゼスの香りが鼻腔に広がる。私はしばしの間、ソーダの刺激とウイスキーの香りを存分に楽しんだ。

 ウイスキーソーダを飲んでいる最中も聞こえてはいたのだが、ジャックダニエルのオンザロックを注文した辺りで店の外で喧噪が起きていることを私はようやく理解した。肉体と肉体がぶつかり合う音が聞こえ、ありとあらゆる罵声が低く野太い声で放たれていた。私は一瞬バーテンダーと顔を見合わせ、すぐに視線を店の中で一番大きい窓に向けた。

 突然窓の外を一人の人影がサッとよぎったかと思うと、一人の男が酒場の中に駆け込んできた。男は荒い息遣いをしながらよたよたとした歩みを進め、カウンターの一番手前側に両手をつくと、へなへなとその場にしゃがみこんでしまった。男はかなり若く見えた。平日の昼にスーツや作業着を着ていないところを見ると学生かもしれない。男が着ている赤いチェックのネルシャツや色あせたジーンズには所々土汚れが付いている。男の口の端に滲んでいるのはおそらく血であろう。

 すると今度は3人の大柄な男たちが扉を乱暴に開けて入って来た。3人の男たちは皆一様に大柄で、筋骨隆々としていた。男たちはすぐに先に入って来た学生風の男の姿を認めると、3人の内で一際大柄な男が学生風の男の胸ぐらをグッと掴むとそのまま男を持ち上げ、カウンターに叩きつけた。

 私とバーテンダーは驚いた。バーテンダーはグラスとグラスを拭くためのクロスをカウンターに置くと、急いで男たちの元へ向かい、自分の店でノ暴力行為を一切やめるように言った。しかし、針金のようにやせ細ったバーテンダーは、学生風の男を叩きのめした奴に胸ぐらをつかまれたと思ったら、扉のあたりにまで投げ飛ばされてしまった。扉にはめ込まれている少し濁ったガラスにはバーテンダーがぶつかった衝撃によって大きなひび割れが出来ていた。

 私はどうすれば良いか分からず、しばらく男たちやバーテンダーが倒れている方向を呆然と見つめていた。バーテンダーは背骨かどこかを折ったのか、小さなうめき声をあげているものの、そこから一切動かない。

「おい、お前!何をじろじろ見ているんだよ!」

 3人の大柄な男たちの内、金髪の男が私に向かって怒鳴りつけた。まずい、ヒステリックな人間だ。私は慌てて視線を逸らし、酒場の棚に並べられている酒瓶たちを見つめるに徹した。ヒステリックな人間に出会うという結末に至った私の選択を後悔しながら。

 右耳から大柄な男たちの怒号が聞こえてくる。学生風の男の抵抗の声も聞こえてくる。どうやら大柄な男たちは学生風の男から彼の所持金を奪い取ろうとしているらしい。男たちの会話の間に割り込むようにしてバーテンダーの苦痛に呻く声も聞こえてくる。あまりにもいたたまれなくなった私は早くここを去ることが出来るようにと願った。しかしこんな状況では、店から出るどころか、私まで大柄な男たちから金をむしり取られてしまうかもしれない。

 中身が詰まったものを叩くような鈍い音も聞こえてくる。どうやらまた大柄な男たちが学生風の男に対して暴力を振るい始めたらしい。男たちが彼を殴る音が次第に大きくなっていくにつれて学生風の男が挙げる声はだんだん弱々しいものになっていった。すると、何だろうか、これは。私の頭の中で何か衝動のようなものがムクムクと湧き上がってくるのが分かった。不安と恐怖と義侠心が入り混じった感情の渦が私の血管を巡っていくような感覚にとらわれた。

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