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随筆:三宅香帆のyoutubeを観て「商売がうまいやつは立派だ!」と思った。
有名人が好きな本を紹介するたびに、「ああ、またあの本の価格が上がるのか」と思うことになる。三宅香帆がYouTubeで紹介した大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』も、そんな一冊だった。前から気になっていたけれど、急いで買うほどではない──そう思っていた矢先、あの動画が投稿され、つい「今買わなきゃ」という気持ちにさせられた。商売がうまいやつは立派だ、とつくづく思う。
しかしときには、有名な評論家に紹介されたために、品切れだった知る人ぞ知る名著が、復刊されるということもありうる。かれらの影響力は大きい。そうすると、慌てて高値で掴んだ私が一番バカをみることになる。そうならなければよいが。できることなら福田和也『作家の値うち』もそうなればいいが、時代性が強すぎて無理だろうか。そこをなんとかお願いしたい。
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文芸評論家を名乗っている三宅香帆という人物は、2025年現在、いわゆる文芸批評というジャンルにおいて際立った存在だ。文芸評論や文芸批評は、文学という斜陽産業の中のさらに窓際部署のようなもので、その中からさらに、テレビや動画サイトなどの映像メディアで活動するようなタレント的な才能をもった人材は皆無に等しかった。タレント性はときに軽蔑されがちだが、批評だって、読まれないより読まれる方がはるかにいい。読まれなければ始まらない。一定の量の読者数という裾野がってはじめて質的な高さが出るに違いない。
youtubeを中心にしていわゆる「考察」というジャンルが一定の人気を得ているから、それが実質的に批評の現在形なのではないかという意見もあるかもしれない。旧世代の重々しい批評との連続性はなかったとしても、批評という活動はますます賑やかになっているのだと。しかし、考察と批評は微妙にニュアンスの異なる作品鑑賞のやり方である。以下のように三宅はのべている。
「考察と批評をよく私は対比するんですけど、今の時代は考察が人気で、作者が正解を持っていて、どうやってその正解にたどり着くかみたいな世界観が主流なんですね。それに対して批評は、こちらが文脈を読み取ったり解釈したり、作者が正解を持っているわけではないという立場です。時代精神みたいなものを語ると『エビデンスはどこにあるんだ』と言われたりするので、それをやりたがる人はいないし、なかなか受け入れられない時代だと思いますけど、私は批評がすごく面白いと思っていて。こういう本で面白さを伝えて、なんとか30代をサバイブしたいですね」
正解のない作品の鑑賞と解釈、これが批評という活動の本質なのだとしたら、これまで(そして現在)、批評は全く人気のない活動といってよいだろう。所詮は、コンテンツの消費者の勝手な妄想と言われても仕方がないからだ。私自身、そもそも他人の独自な解釈など、見聞きして面白いのだろうかと、他人に批評がなにか説明しても魅力が理解されないことが多い。
三宅香帆のように、映像メディアを通じて批評的な活動を展開している人物は、他にもいないわけではない。例えば最近では、TBSテレビ系列で放送されている「プレバト!!」において、芸能人の才能査定という企画趣旨で、芸能人の俳句の添削をおこなっていた夏井いつきが、隠れたスター文芸評論家だったと言えるかもしれない。もちろん管見のかぎり、彼女を文芸評論家として論じた文章に出会ったことはない。彼女自身、俳人を名乗ることはあれど評論家を名乗ったことなどないに違いない。しかし、いささか「考察」的な赤ペン先生の正解発表のような要素があったにせよ、文芸作品を鑑賞し批評するよろこびを世間に広めていたのは、間違いなく彼女だったように思う。
あとは、アニメやマンガの「考察」が流行するなか、そうした作者の意図を汲もうとするのではなく、あくまで作品を読解して独自の解釈をyoutubeチャンネルから発信し続けた人物として、岡田斗司夫の名前が評論家として挙げられるかもしれない。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版𝄇』の独自の解釈が公式から否定されたことで、かえって批評のというものの凄み(?)を見せたのは記憶に新しい。そして彼もまた、狭義の批評というジャンルを文章として発信するだけではなく、動画という映像メディアにおいて、口頭での語りを通じて批評を提示してきた。
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骨太な批評を読みたいといつも思っている自分のような人間からすれば、そうした映像メディアで活躍する批評家の登場は好ましくない部分もある。やはり、徹底的に作品を深堀りした批評は文章で読みたいからだ。しかし、良くも悪くも世間の目に触れる「評論家」を名乗る人物が現れていることは、素直によろこびたいと思う。これだけ映像メディアが発達して各人が別々のコンテンツを消費する中で、着実に視聴者を獲得する情報発信ができる人物は、それほど多くないからだ。そしてきっと、番組出演や動画作成に忙しくなったとしても、三宅香帆は読書し続けるに違いない。