ちいさな秋をみつけた日
小さな、かわいらしいものが並んでいる姿に弱い。
例えばぬいぐるみはひとつでもかわいいが、それがいくつもぎゅっと身を寄せ合っていたとしたら、みんなまとめてより強く抱きしめてしまいたくなるだろう。
秋晴れの休日、玄関を出て階段を十数段おりたところで出会ったひとつめの秋は、きちんと整列して待っていた彼らだった。
歩き出して駅に向かい、しばらく電車に揺られて街から街へと運ばれる。
休日の時間はゆっくり流れていくから、何か探し物でもしているかのように、のんびり歩いていく。
目の前にスタバがあって、席が空いていたならそれは休めの合図だ。
「パフェとかを撮るとき、スマホを逆さにして写すといい感じになるんだって」
そう前に教えられたので、半信半疑でひっくり返したスマホで撮影してみたフラペチーノは、不思議と姿勢よく写真におさまってくれた。
そんな豆知識をくれたあの子のお見舞いにケーキを持って行く。
ふたりで一緒にスマホを逆さにしてケーキを撮ってみたけれど、なぜだか変化は見られなかった。
「パフェとか大きめのグラスとか、ある程度の身長が必要ってことなんだね」と話し合って納得した。
また電車に揺られて、うとうとしながらもとの街に戻ってくる。
吹く風の冷たさに確実に季節が変わったと感じるが、木々を見上げると木の葉の色づきはまだまだである。
あの子の病名について調べようと近所の図書館に寄ったら、銀色夏生さんの写真詩集を1冊見つけた。
借りてきた「ひとりが好きなあなたへ2」の書き出しは、
ーこんにちは。おひさしぶりです。
だった。
はい、おひさしぶりです。
ご無沙汰していてごめんなさい。
ずっと大好きだと思い続けていたつもりなのに、長いこと読んでいなかった銀色夏生さんに声を掛けてもらったような気がして、懐かしくてうれしかった。
また読んで、空白を埋めようと思った。
どうしてか〝赤い実〟が好きだ。
甘酸っぱいストロベリー、クランベリー、ラズベリー、リンゴンベリーなどを食べることも、その見た目も愛しくてたまらない。
ムーミンママが赤い実を煮詰めてジャムにする場面も好きだし、秋には寒くなるにつれ色濃くなってゆく名前もわからない木の実をじっと見つめてしまう。
上の写真は南天である。
それだけは知っている。
子どもの頃にしょっちゅう預けられていた祖父母の家の玄関に、大きな南天の木があったからだ。
毎年たっぷり赤い実をつけていた。
活版印刷屋さんだった祖父母のことは、手触りのいい紙や、好みの活字を見つけた時などにふと思い出す。
もう会えなくても、たくさん思い出すということは大好きで仲よしということだ。
次のお見舞いはいつ行けるだろうか。
来週末の休日まで、毎日あの子のことを思うだろう。
また明日から1日ずつ秋が深まり、木々の葉も色づいてゆくはずだ。
そうだ、今しかお目にかかれない、とびきりのモンブランを探して持って行くことにしよう。