見出し画像

読んで満ちる、おなかと心

みなさんは角田光代さんという作家をご存じでしょうか。数々の文学賞を受賞しており、著書である『八日目の蝉』や『紙の月』、『愛がなんだ』などの作品は映画化もされているので、読書好きではなくても、名前を聞いたことがあるという方もいるかもしれませんね。
最近では愛猫のトトを題材にしたフォトエッセイ『今日も一日きみを見てた』や、野性時代で連載中の『明日も一日きみを見てる』(毎月22日ニャンニャンの日にnoteでも公開中)も猫好きの間で話題になっています。

彼女の小説は日常の風景が少し暗く、登場人物はどこかミステリアスであり、そんなところが読書好きから人気の理由なのかもしれません。しかし、エッセイになるとその印象はがらりと変わります。庶民的で気取らず、少し自虐的な彼女が友達だったら毎日どんなに楽しいだろうか、と考えてしまいます。
特に彼女の趣味でもある旅を題材にしたエッセイは、旅好きにはもちろん、そうでない人にも手に取ってもらいたいです。
文字を追っているだけなのに、その場にいるかのように浮かんでくる景色。時には東南アジアのじめっとした蒸し暑さやヨーロッパの優雅な香りさえ感じさせてくれます。
旅中の心情に共感してセンチメンタルになったり、あるあるエピソードにくすっと笑ってしまったり、彼女のエッセイは何度も私を日常から世界に連れ出してくれました。

『いつも旅のなか』や『これからはあるくのだ』、『世界中で迷子になって』などお気に入りの本はたくさんあるが、数ある彼女のエッセイの中でも私は特に『今日もごちそうさまでした』をお勧めします。
この本は50を超えるエピソードで構成された短編集であり、1エピソードが5ページ程度ととても短い。読書が苦手な人にも、日々の生活に追われて忙しい人にも、さくっと読めるのがお勧めするポイントでもあります。また、「変わり者」である彼女の独特の語り口調も読みやすさを手伝っています。
この本は食に対して強いこだわりがあるわけではない角田さんが、食について思うがままに書いたエッセイです。
フォアグラやキャビアの話は出てこず、卵に枝豆、しらたき、納豆と馴染みの深い食材ばかり。五つ星レストランに行った話ももちろん出てこず、憧れのチーズフォンデュを食べた話や苦手だったきのこが食べられるようになった話が大部分をしめています。新鮮さや驚きよりもシンパシーを感じる部分が多いです。
そんな大量のエピソードの中で私が特に気に入っているエピソードが『世界じゃが芋の旅』です。タイトルの通り、世界各国のじゃが芋の話です。
内陸のため魚が少ない国や土地が貧しく野菜が少ない国。地域によって食べ物の種類や質に差はあるが、どこへ行ってもじゃが芋は必ずいる、なんて頑丈な食べ物なんだ、と独自の視点で切り込んでいきます。
角田さんが実際に6つの国で食べた7つのじゃが芋料理。そのどれもが見事に文字で再現されており、見たことも聞いたことも、もちろん食べたこともない料理でさえも、自分の目の前にその料理があるかのように感じ、口の中がほくほくしてしまう。
そして最後には「やっぱり帰国後に自分で作った和食が一番おいしい」というオチが待っています。今までの話はなんだったのか!と笑ってしまいますが、日本人である私もその意見に頷きました。そんな誰にでもある日常の切り取り方が彼女の最大の魅力であり、才能だと思います。

食べることも旅することも大好きな私には「食べることは旅すること、旅することは食べること」という自論があります。この言葉に共感してくれる方も少なからずいるのではないかと思っています。
料理は味覚だけでなく視覚からもワクワクした気持ちを引き出してくれるし、新しい味に挑戦することは冒険です。また、旅中に見る景色や感じる風にドキドキするだけでなく、食事から新しい発見があったり、その地域との繋がりを感じることもできます。
私が以前勤めていた会社は休憩もまともにとれないくらいに常に緊迫していて、ある先輩は毎日コンビニのメンチカツサンド1個とトマトジュース1缶を立ったまま食べていました。
一度、「毎日同じ食事で飽きないのか」と聞いたことがありますが、彼は「これが一番手軽にエネルギーがとれてコスパがいい」と言っていました。彼は生きるために仕方なく食べていたのです。「明日は何を食べようかな」と考えながら眠りにつく私は、その考えに心底驚きました。
食べることは生きるために必要不可欠だけど、その役割はそれだけではないと思います。また、旅することは生きるために必要のないことかもしれないけど、心のエネルギーをチャージするため私にとっては必要不可欠なものです。日常を生きるために必要なことと、人生を生きるために必要なことは同じではありません。

2年程前から旅行ばかりではなく外食さえも制限され、息苦しい毎日を送っています。「新しい日常」という言葉も生まれたが、その事実にまだ違和感を覚え、我慢をしている人も多いでしょう。(もちろん私もその中の一人です)
エッセイには「私は一人ではない」と思わせてくれる不思議な力があります。みなさんも是非、本のページをめくることで自由に羽をのばし、心に潤いを与えていってほしいです。

いいなと思ったら応援しよう!