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乙巳の変の不思議


乙巳の変とは

 乙巳の変(いっしのへん)とは、西暦645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原氏の祖)が首謀して蘇我蝦夷を宮中で誅した事件。私は大化の改新と学校で習ったけれども、この事件に続く大化の改新そのものにいろいろ疑問が出てきたこともあり、蘇我氏宗家を打倒した乙巳の変と、中央集権国家の樹立を目指した政治改革とされる大化の改新を分けて呼ぶようになったように思われる。
 中央集権国家を目指す動きは、さらに時代を遡る聖徳太子の時代に始まったように見える。太子が十七条憲法を発布し、冠位十二階の制を導入したのは有力豪族に大王(オオキミ)すなわち後の天皇が推戴される従前の体制から脱却して、大王を頂点とする官僚機構を備えた中央集権体制の国造りを目指したものであることは明らかである。
 太子が仏教を導入したのは教理そのものに傾倒したこと、寺院の建築技術を含めた高度の文明であること、が主な理由だろうが、同時に豪族たちの氏神を超越した聖なる仏陀を国家として祀ることが中央集権体制を支えることにもなるとも考えたことだろう。
 私達は、皇室の祖とされる天照大御神が日本の神々の中で最高の神とされていることを知っているが、それは8世紀に編纂された古事記や日本書紀にそのように記されているのであり、聖徳太子の時代に豪族たちが自分たちの氏神と皇祖神との関係をどのように考えていたのかは分からない。

律令国家への志向

 聖徳太子が中央集権体制を目指したのは、おそらく西暦581年、大陸に隋王朝が成立したことがきっかけになったのだろう。大陸は漢王朝が3世紀に滅んでから長らく、いくつかの王国が並立し分裂した状況だったのだが、およそ3世紀半ぶりに中国大陸を統一した強大な帝国である"隋"が出現したのだった。
 以下、素人の勝手な主観や妄想を交えて述べるのだが、海外の強大な勢力に対峙して危機感を抱き、国内の体制を作り変えようとした動きとして、聖徳太子から天武天皇に至る律令国家建設への動向と、幕藩体制から脱却して西欧風の中央集権的な法治国家を建設した明治維新とはパラレルに見えてしかたない。どちらも海外に目を開いて文物を導入し、国を近代化する動きであった。「歴史は繰り返す」ことの重要な事例ではなかろうか。
 ここで不思議なことは、蘇我氏は仏教の導入に積極的であり、聖徳太子の政策にも協力的であったことである。つまり、大きな流れの中では蘇我氏は中央集権国家の建設を推進する側に立った、いわば開明派だったように見える。蘇我氏と物部氏が仏教の導入を巡って戦ったとされる552年の丁未の乱(テイビノラン)は政治体制を巡る開明派と守旧派の争いという意義もあった。そして、この乱に聖徳太子が蘇我氏側に立って参戦したことも知られている。
 では、開明派のリーダー的存在であった蘇我氏(宗家)が何故、乙巳の変で滅ぼされることになったのだろうか?端的には、蘇我氏が専横を極めたからだと学校では教わったのだが、その専横とはどういうことだったのだろうか。専横な大臣を誅したことが、なぜ時代を画すような大事件として取り上げられるのだろうか?

二朝並立

 蘇我氏の専横なる行いの前に、蘇我氏が興隆した時代の大和朝廷または大和王権の状況について見ておきたい。当時は、大王(後の天皇)を推戴した大和の大豪族たちの連合によって朝廷が運営され、地方の豪族たちは国造(クニノミヤッコ)として大和に服属し、子弟・子女を舎人(トネリ)・采女(ウネメ)として出仕させる形で国がまとまってきた。
 5世紀には朝鮮半島で高句麗・百済・新羅の王朝が互いに争い、大和朝廷が半島南部の拠点を設けた加羅への影響力を失いつつあった。そして506年に武烈天皇が崩御すると後継者がいなくなってしまった。朝廷は越前から応神天皇の血をひくとされる後の継体天皇を招請したが、容易に大和に入れなかったという。それを見計らって新羅と結んでいたとされる筑紫君磐井が527年に大和に反旗を翻した。
 磐井の乱はやがて鎮圧されたが、大和朝廷にとっては激動の時代だった。そして531年に継体天皇が崩御した後に、政権は大伴金村によって支えられた安閑天皇・宣化天皇を中心とした勢力と、新興の蘇我稲目によって支えられた欽明天皇の勢力とに分裂し対立したとも考えられている。この状況を「二朝並立」と呼ぶ史学者もいる。 
 安閑・宣化・欽明の3人の天皇(大王)は継体天皇の皇子であり互いに兄弟だが、継体天皇とこれら3人の天皇については日本書紀が伝える他に異伝もあり、正確なことがよくわからないが故に生まれた学説である。
 そして、二朝並立という学説を生んだ状況は、539年に2つの派閥の妥協によって欽明天皇の王権に統一されたと考えられ、大伴金村は失脚していった。おさえておきたいのは、日本書紀が編纂された8世紀には天皇の権威が高まっていたが、継体天皇の時代においては王権の基盤が不安定化し、大王の地位と権威も流動化していたことである。

崇峻天皇暗殺と山背大兄王滅亡

 日本書紀は540年に欽明天皇が即位したと伝えている。以降、蘇我氏が皇統を支えていったのだが、欽明天皇の崩御の後は皇子の敏達天皇が、その後は、やはり欽明天皇の皇子の用明天皇が即位した。聖徳太子は用明天皇の皇子であり、山背大兄王は聖徳太子の皇子である。
 そして用明天皇が崩御した後588年に即位したのが、やはり欽明天皇の皇子である崇峻天皇だったが事件が起こった。仏教を振興し渡来人も活用して大陸の先進文明を導入しながら、大臣として権勢を振るっていた蘇我馬子が東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って592年に崇峻天皇を暗殺したのだった。
 その理由について日本書紀は天皇が馬子を嫌っていることを側近に洩らしたのを馬子が伝え聞いて先手を打ったように伝えている。なぜ天皇が馬子を嫌ったかを直接示す記述はない。ただし、それに先立つ文章では前年に崇峻天皇が朝鮮半島での失地回復(任那日本府の再興)を願い臣下に是非を問うたことが記されていることに注意したい。
 崇峻天皇の後を継いで皇位を継承したのは、その妹で欽明天皇の娘かつ蘇我稲目の孫にあたる推古天皇であった。つまり、欽明天皇の后が蘇我稲目の娘だったわけだが、推古天皇にとって大臣の蘇我馬子は叔父にあたり、聖徳太子は甥にあたる。当時、朝鮮半島では任那が新羅に脅かされていたことから推古天皇は新羅を征討しようとしたが大将となる来目皇子が遠征先の筑紫で薨去したことから果たせなかった。
 聖徳太子が摂政を務めていた間に中央集権化を目指して冠位十二階の制が定められ、十七条憲法が発布され、遣隋使を往来させたことは日本書紀に記されている。そして、621年に聖徳太子が薨去、626年に蘇我馬子が逝去、628年に推古天皇が崩御し、一つの時代が終わった。
 推古天皇の後を継いだ舒明天皇(629年即位)は推古女帝の実子であり、人望は聖徳太子の皇子であった山背大兄王にあったのかも知れないが、舒明天皇が即位したことは自然な成り行きだったと思われる。
 ここで整理すると武烈天皇が崩御した後に皇統が断絶したので大伴金村が越前から招請した継体天皇(応神天皇の子孫という)が即位した。この継体天皇の皇子であった安閑・宣化・欽明の兄弟が順番に皇位を継いだが、最終的に蘇我氏が後ろ盾になった欽明天皇の皇統が続いた。
 欽明天皇の後を継いだのは、その皇子または皇女だった敏達・用明・崇峻・推古の諸帝であった。崇峻天皇には継嗣がいなかったので推古女帝が即位した。用明天皇の皇子で摂政・皇太子だった聖徳太子は推古天皇より先に薨去し、後には山背大兄王が残された。また、敏達天皇には押坂彦人大兄という皇子があったが、この方は天皇に即位していない。
 そして日本書紀が伝えるところでは推古女帝の後を継いだ舒明天皇が641年に崩御し、その翌642年に皇后であった皇極女帝が即位したという。皇極天皇は敏達天皇のひ孫にあたる。舒明・皇極の両天皇の皇子である後の天智天皇はこの時、まだ16歳ほどだったとされている。当時、蘇我氏を代表して権勢を揮ったとされる蘇我入鹿が山背大兄王の一族を討伐したのは643年のことであった。書紀には、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子に皇位を継承してもらうために山背大兄王が邪魔になった入鹿が画策したと記されている。 

再びの二朝並立?

 以下は個人的な妄想であるが、同様のことを考えた人は過去にいなかった訳ではない。たとえば歴史小説の大家であった海音寺潮五郎も同様のことを述べていた。何かというと、舒明天皇が崩御した後に、蘇我蝦夷が大王として大和朝廷のトップに立ったのではないかという仮説である。
 蘇我馬子が592年に崇峻天皇を弑し、馬子の孫の蘇我入鹿が643年に聖徳太子の血をひく山背大兄王を滅ぼしたが、外形的に推測すれば、こうした動きによって蘇我氏が実力で王権を手中にしたと推測できないだろうか?それは皇極天皇の王権と並立するものだったかも知れないが、日本書紀には、 蘇我氏の専横について、いろいろなことが記されている。
 舒明天皇が崩御した641年に蘇我蝦夷は自家の祖廟を葛城の高倉に建てて八佾の舞(「やつらのまい」と読むが64人が方形に並んで舞う天子の行事)を行った。また、豪族たちの私有民を召し使って、蝦夷ならびに入鹿の生前墓として瓢形古墳を建造させ、陵(ミササギ)と呼ばせたと云う。
 また、644年の11月に蝦夷と入鹿の父子が甘樫の丘に屋敷を並べて建てて、それぞれを「上の宮門」(ウエノミカド)、「谷の宮門」(ハザマノミカド)と僭称し、自分たちの子どもたちを「王子」(ミコ)と僭称したと記されている。
 一般的には、いくらなんでも蘇我氏がそれほどまでに皇室に対して不敬なことを行ったわけはなく、日本書紀を編纂した時に蘇我氏の悪行を脚色したのだろうと解釈する見解が主流だと思われる。だが、天武天皇が書紀の編纂を命じたのが681年で完成したのが720年である。蘇我氏が大王となった記憶や伝承が残っていて書紀にも記録せざるを得なかったとも考えられる。むしろ、蘇我氏の専横が脚色だとすると、何故そこまでして蘇我氏を滅ぼしたことを大事件として取り上げて正当化しているのか不思議なくらいである。
 加えて、著作「大化の改新」にて、海音寺潮五郎が指摘したのは、642年に国家行事として行われた雨乞いの儀式である。夏に旱魃が続き、豪族たちはそれぞれが牛馬を殺して(生け贄にして?)降雨を祈ったが一向に雨は降らない。そこで蘇我蝦夷が寺寺にも命じて経典の読誦を行わせ、自ら率先して香を炊くなど仏教の儀式に則って、7月27日に国家的行事としての雨乞いを挙行した。それによって、多少の雨が降ったが十分ではなかった。
 そこで舒明天皇の跡を継いだ皇極女帝が8月1日に天を仰いで祈ると雷鳴とともに大雨が降り出し、5日間続いたことから十分に潤い、庶民は皇極天皇の徳を讃えた、と日本書紀に記されている。蘇我氏の専横を脚色というなら、こちらの方がよほど脚色だと思うが、それはともかく、蝦夷が天皇(大王)でなければ行い得ないと考えられる、朝廷を代表しての雨乞いの儀式を皇極天皇に先んじて行ったことを海音寺潮五郎は重視した。
 日本書紀は蘇我蝦夷を一貫して大臣(オオオミ)としているが、舒明天皇が崩御した後の事績からは大王(オオキミ)だったように見えてしまう。皇統の血を引いていない蘇我蝦夷であるが、中国大陸では易姓革命は当たり前のことであり、皇室(大王家)が神道のシャーマンキング(司祭王)という権威を持っていることに対して仏教の祭儀で対抗したように思われる。

乙巳の変

 そして645年に中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって謀った乙巳の変によって、蘇我氏の宗家である蝦夷と入鹿の父子が滅亡した。その後も、この事変に協力した蘇我倉山田石川麻呂(この人は蝦夷・入鹿を出した宗家ではないが蘇我氏一族の有力者で中大兄皇子の后の父だった)を失脚させ、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(舒明天皇の皇子だが、母は蘇我馬子の娘)を討伐するなど残った蘇我氏の有力者と蘇我氏の血をひく皇子への粛清が続いた。
 蘇我氏が単に増長した大臣であったならば、ここまでする必要があったのだろうか。むしろ、一度は大王に即位した蘇我氏だからこそ、乙巳の変はクーデターという重大な事変であり、その後の粛清も徹底的だったように見えてしまう。なお、乙巳の変の後645年に、皇極女帝は弟宮に譲位して孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となった。
 冒頭、大化の改新について、いろいろと疑問が出てきたと述べた。日本書紀では孝徳天皇が「改新の詔」を発して、班田収授の法や租庸調の税制すなわち公地公民制の原則を定めたと記されている。しかし、その内容は後年の大宝令によって示された内容を過去に投影した脚色ではないかという疑いが生じたのだった。
 それは書紀の伝える改新の詔において地方の行政組織であった「こおり」に「郡」という文字が使われているところ、当時の遺跡から発見された木簡では「評」という文字が使われていたことから提起された疑問である。「郡」という文字は701年の大宝令以降の木簡に使われたことがわかっている。
 その他、日本書紀の孝徳天皇の治世に出された詔勅の多くは、その時代に出されたという確たる根拠がなく、それらを除くと中央集権への移行はたいして進まなかったように見えるのである。
 では、乙巳の変の後に実権を握った中大兄皇子の時代の事績とは何だったのか。改新の詔が示すような公地公民制の導入は実態が伴っていなかったとしても、新たな官制や冠位制の導入、東国への統制強化と評(こおり)の設置、大和から海に近い難波への遷都が実際に行われたことは間違いはないとされている。そして、これらは一面で中央集権化への動きかも知れないが、むしろ朝鮮半島への介入に益する挙国一致の体制づくりであったように見えるのである。

朝鮮半島への介入と壬申の乱

 大陸では強大な統一王朝である隋(581~618)、唐(618~907)が相次いで興った。朝鮮半島では、4世紀半ばから7世紀半ばくらいまで高句麗・新羅・百済の三国が並立していたが隋や唐の成立の影響も受けながら三国間の緊張も増していたのだった。その間、日本は朝鮮半島南部の任那に日本府をおいて半島の拠点にしていたのだが、欽明天皇の時代562年に新羅に滅ぼされていた。
 ここで崇峻天皇の暗殺について振り返りたい。崇峻天皇は任那を再興したいと考え臣下に諮った後に蘇我馬子に暗殺されたように日本書紀には記されている。日本史の教科書には、あまり取り上げられていないが日本書紀には日本が朝鮮半島南部の任那に拠点をもうけていたことや、高麗・新羅・百済の三国と外交(時には戦争)を繰り広げていたことが記されている。
 それらの国が大和王権に朝貢していたと記されていることから忖度して学校では教えていないのかも知れないが、崇峻天皇の後を継いだとされる推古天皇は、新羅に攻略された任那を支援するために三度出兵を企てたと書紀には記されている。
 第一次は600年のことで、蘇我氏の一族である境部臣が一万の兵を率いて渡海し、新羅は降伏したものの大和の軍が退いた後に再び任那と交戦した。そのため翌年、聖徳太子の弟である来目皇子を将軍として出兵したが皇子は病に冒され征討を果たせなかった。皇子は603年に筑紫で病没したため、その兄である当摩皇子を将軍として再び派兵を企てた時に后が病没したため沙汰止みとなった。なお、中国側の記録には600年に倭国が遣隋使を派遣したとあり(小野妹子が派遣されたのは607年)、朝鮮半島での争いを有利に運ぼうと隋との外交を謀ったのだろうが成果がなかったものと見られ、日本書紀には記されていない。
 こうして、日本の権益が新羅に侵された状況が続くが、舒明天皇の時代には朝鮮への出兵はなく、舒明天皇が641年に崩御するや、蘇我蝦夷の専横が極まったとされ、645年の乙巳の変につながっていく。この変の後に皇極天皇は孝徳天皇に位を譲るが、孝徳天皇は654年に崩御。皇極上皇が斉明天皇として再び皇位に就き、日本の同盟国であった百済を圧迫した新羅を征討するために661年には自ら筑紫に赴くが、その地で崩御。中大兄皇子が称制を経て天智天皇として即位し、新羅征討を継続するが、663年の白村江の戦いで大敗。結果として百済は滅亡し、日本軍は撤退した。そして西日本に水城(ミズキ)を建設し唐・新羅に対する防御を整えるとともに、667年には避難するように都を飛鳥から近江に遷した。
 天智天皇は671年に崩御したが、その弟である大海人皇子が672年に近江の大友皇子に対して反乱をおこして天武天皇として践祚することとなったのが壬申の乱である。ちなみに、日本書紀には大友皇子が皇太子になったとも記されていないが、「扶桑略記」など平安時代の複数の史書には、大友皇子が天皇として即位したと記されているそうであり、明治時代には弘文天皇として公式に追諡された。事実は不明だが、大友皇子は即位したものの壬申の乱が近江朝から皇位を簒奪するクーデターであったことを日本書紀は隠したと考える説もある。
 壬申の乱に勝った天武天皇は公地公民制に基づく中央集権を推し進め、唐に倣った国造りを目指し、国号を日本と改めて朝鮮とも中国とも距離をおいた。その後、明治時代に至るまで、日本が朝鮮半島に介入することはなかった。

まとめ

 文献史料に欠けるため空白の5世紀とも言われる時代の大和王権における皇室は強大な豪族たち(マエツキミ)に推戴される存在であり、後の律令国家におけるように貴族たちの上に君臨する高い存在とは言えなかった。
 6世紀に武烈天皇が崩御すると皇統が絶えたので実力者の大伴金村が越前から応神天皇の子孫である継体天皇を招請して皇位が継承された。 その皇子たちが順に皇位を継いだが、皇統は2つの派閥に分裂し、新興の蘇我氏が支えた欽明天皇の血統が続いたことは前述したとおりである。
 当時の大和王権には2つの大きな課題があった。一つは任那を足がかりにした朝鮮半島における権益を百済と同盟しながら守り、あるいは復興すること(守旧的政策)。もう一つは大陸に出現した隋帝国や唐帝国をモデルとした公地公民に基づく律令制を敷いて、倭国を強い中央集権国家にして独立を守ること(改革的政策)である。
 皇室は朝鮮半島の権益にこだわり続けたが、蘇我氏は中央集権国家の樹立を目指していた。その後、崇峻天皇と蘇我馬子との政策の相違は厳しく対立して、馬子が崇峻天皇に反逆して暗殺するにまで至った。崇峻天皇の後を継いだのは初の女帝である推古天皇であったが、大臣の馬子および皇族でありながら中央集権国家の樹立を重大な国家的課題と認識していた聖徳太子の3人によって国家の舵取りが行われた。
 推古朝において、朝鮮半島への介入は3度試みられたと日本書紀には記されている。第一回目は蘇我氏の一族である境別臣を将軍として出兵したのだが、二回目と三回目は、それぞれ来目皇子、当麻皇子を将軍に任じながら、出兵には至らなかったとされている。来目皇子は遠征先の筑紫で薨去したと記されているが、その墓所は河内の塚穴古墳に比定されており、二回目と三回目の派兵が実際にあったのか疑問にさえ思う。実際の介入は蘇我氏の実力の下で行われた第一回だけだったのではないか、と根拠はないが個人的に疑いを挟んでいる。
 そして、推古女帝を継いだ舒明天皇が崩御した時に、一度、皇統に空位状態が生じたのかも知れない。舒明天皇を継いで皇極女帝が即位したことについては専門の史学者からも、いろいろな疑問が呈されている。この時に蘇我蝦夷が大王として大和王権を代表する地位に登ったのではないか、そして、それに対する反クーデターが乙巳の変だったのではないか、というのが個人的な妄想である。
 乙巳の変の後に皇室から再び孝徳天皇が践祚し、その崩御の後は、なぜか中大兄皇子ではなく斉明天皇(=皇極天皇)が即位した。斉明天皇・中大兄皇子の下で再びの朝鮮半島介入が試みられるも大敗して、都を飛鳥から近江に遷す羽目にまでなった。天智天皇(=中大兄皇子)の後を継いだ弘文天皇(=大友皇子)に対して、中央集権国家の樹立を目指す後の天武天皇がクーデターを起こしたのが壬申の乱ではなかったか。この大乱は関ヶ原を戦場として戦われた。勝利によって天武天皇の権威は高まり、天武・持統朝において、国号が日本と定められ、公地公民にもとづく律令国家の体制が築かれ、朝鮮半島への介入は止んだ。そのように考えるのである。

(参考)皇極天皇の即位については例えば、次のような疑問が呈されている。https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kanzaki.pdf

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