横須賀からみる日本開国史(後編)
前編では、浦賀・久里浜方面を中心に黒船来航から日米和親条約の締結と鎖国の終焉に至るまでのお話をしましたが、後編では、横須賀が近代日本海軍の拠点となっていく姿についてお話していきます。
1 江戸末期
(1) 海軍建設への動き
黒船来航を機に、幕府は海を越えてやってくる脅威に本腰を入れて対応策を考えるようになります。
沿岸部への砲台建設だけでは不十分で、新たに軍艦を建造するとともに、これらを修理する本格的な造修施設や、担い手となる技師・乗員を育成する教育機関の必要性を痛感したのです。
前編でも述べたとおり、幕府は黒船来航直後の1853年9月に大船建造の禁を緩和し、浦賀造船所を設置して7か月かけて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造しました(翌1854年9月には、オランダに蒸気船2隻を発注)。
また、1855年に長崎に「海軍伝習所」を開設しました。勝海舟や中島三郎助らが初期の伝習生となり、その後の幕府海軍を牽引することになります(勝海舟は、後年「神戸海軍操練所」や私塾としての「海軍塾」を設立し、坂本龍馬など多くの志士たちの思想・活動に大きな影響を与えた)。
(2) 咸臨丸の太平洋横断
1858年6月に調印された「日米修好通商条約」の批准書交換のため、幕府の使節団がアメリカの軍艦「ポーハタン」で訪米することになると、この船に護衛艦をつける話が持ち上がります(幕府海軍の存在感を内外にアピールするねらいもあった)。
翌1859年、「咸臨丸」がそれに任ずることになりました(咸臨丸は、1854年9月にオランダに発注した蒸気船のひとつ)。
同年、浦賀に日本初のレンガ積みドライドック(船体補修のため、船をドックに引き込み、水密性のゲートを閉めて海水を完全に排水できる施設)が完成し、咸臨丸の長期航海に向けた整備が行われました。
そして、1860年2月に勝海舟やジョン万次郎らを乗せて出港し、37日間の航海ののちサンフランシスコに到達したのです(日本史上初の太平洋横断)。
使節団はアメリカで軍艦や造修施設を見学し、日本にも造船所を作る必要性を強く認識します。その使節団には、監察という身分で同行した小栗上野介忠順が含まれていました。
小栗らは当初アメリカに造船所建設の協力を要請したのですが、当時のアメリカは南北戦争の最中にあり、協力を拒まれます。イギリス、ロシア、オランダからも断られ、協力を得られる国を探すのは難航していました。
(3) フランスによる働きかけ
そのような中、フランスが名乗りを上げます。当時、フランス国内では製糸業を支えていた蚕が伝染病にかかり産業が壊滅状態となり、生糸の輸入とヨーロッパの伝染病に強い蚕を海外に求めていました。
そのため、駐日フランス公使ロッシュが幕府に接近を図ってきたのです。ロッシュは、書記官のカションを通じて幕府内の親フランス派、栗本瀬兵衛や小栗らと連絡を取り、横須賀の楠ヶ浦付近に造船所を設置することで合意しました。
造船所の設置場所として横須賀が選ばれた理由
① 外国に門戸を開いた横浜港に近い
② 大型船が安全に運航できる水深がある
③ ドライドックを建設できる強固な岩盤がある
そして、ロッシュが推薦したフランス最高峰の理工系学校出身の造船技師フランソア・レオンス・ヴェルニー が首長に任命されたのでした。
ヴェルニーは1865年1月に来日し、母国フランスのツーロン港に似た横須賀の地形を気に入ったといわれています。そして、技術者の確保と機械類調達のためフランスに一時帰国します。
(4) 横須賀製鉄所の起工
この間、幕府は1865年11月に「横須賀製鉄所」(後の横須賀造船所)の起工式を行いました。
ヴェルニーは、1866年6月に一時帰国していたフランスから横須賀に戻り、43人のフランス人技術者とともに製鉄所の建設・運営に乗り出しました(その後、1876年3月まで約10年にわたり製鉄所(後の造船所)の首長を務めた)。
2 明治時代
1867年11月、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇へ政権を返上(大政奉還)し、1868年4月に江戸城が無血開城され、7月以降、江戸は東京に元号は明治に改められて10月に明治天皇が即位する(明治時代が幕を開ける)と、横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれます(他方で、浦賀奉行所は役目を終え解体された)。
1870年、明治政府軍は陸海軍に分離され、1872年に海軍省が東京築地に設置されると、ここに「大日本帝国海軍」(Imperial Japanese Navy)が誕生しました(初期は勝海舟らが指導)。
(1) ドライドックの完成
1871年2月、横須賀製鉄所で日本初となる石造りのドライドック(第1号ドック)が完成すると、同年4月に横須賀製鉄所は「横須賀造船所」に改称されました。
この第1号ドックには江戸城の石垣と同じものが石積みに使われました。当時のフランス人技師たちは日本人の石積み技術の高さに驚いたといわれています(参考:第1号ドック建設中に象の化石が出土し、これを確認した地質学者ナウマンの名をとってナウマン象と名付けられた)。
横須賀造船所は、1872年10月から海軍省の管轄下に置かれます。1884年に2号ドック、1874年に3号ドックが完成し(注:着工は3号より2号が先)、1875年3月には、横須賀造船所で初めて建造された軍艦「清輝」が進水しています(その後、帝国海軍は毎年3隻ずつ軍艦を建造する計画を立てた)。
(2) フランスからもたらされたもの
横須賀造船所の稼働率が上がるにつれ、用水確保のため新しい水源が必要になりました。
1873年、ヴェルニーは多量の湧水が出る走水(はしりみず)から造船所までの引水を計画し、1876年12月には約7kmの工事を完了させました(走水〜造船所間の高低差は僅か10mしかなく、効率よく水を引くために4か所のトンネルが掘られた)。
この時期、ヴェルニーらフランス人によって艦船造修や引水のみならず、次のような様々な知識・技術がもたらされました。
○ 1868年から横須賀製鉄所に雇われたフランス人医師サヴァティエは、フランス人のみならず周辺住民を含む日本人も診療し、フランス医学の日本への伝承にも貢献
○ 1869年、横須賀製鉄所のフランス人技師フロランにより、日本初の洋式灯台、観音崎灯台が設計施工された(同年1月、幕府が1648年に建立した浦賀灯明堂は役目を終えた)
○ 1870年、横須賀製鉄所のフランス人技師バスチャンにより、現在、世界遺産となっている富岡製糸場が作られた
○ 横須賀製鉄所内に学校が建設され、デュポンらによって代数・幾何・解析・三角関数など、当時の日本では最も水準の高い知識が与えられた
○ 横須賀製鉄所起工時、耐火性の高い赤レンガがフランス人技術者により量産化され、横須賀は赤レンガ建築の先駆けとなった
こうして、横須賀は急速に発展を遂げ、明治政府の殖産興業・富国強兵の模範となっていったのです。
他方、江戸末期から軍艦の修理施設として使われた浦賀は衰退しつつありましたが、1873年、横須賀造船所が海軍省に移管されると、浦賀に「水兵練習所」が開設され、徐々に活気を取り戻していきました(「浦賀造船所」自体は1876年に閉鎖されたものの、榎本武揚らが中心となって1897年に「浦賀船渠」を設立し、浦賀船渠は2003年まで日本の艦船造修を支え続けた)。
そして、1875年11月、横須賀造船所の創業から10年が経ち艦船の造修技術はほぼ習得できたと判断した明治政府は、ヴェルニーやサヴァティエらを解任することとし、ここにフランスによる知識・技術の伝承は終焉を迎えることになります。
(3) 海軍の一大拠点へと大きく変貌
1880年に陸軍が観音崎砲台の建設を開始し、1884年に海軍が横須賀に鎮守府を置くと、横須賀造船所は鎮守府直轄の「横須賀海軍造船所」に改称され、横須賀は軍都としての重要性を益々増大させていきました(参考:遡ること1867年から大滝町以東の海岸が順次埋め立てられ、1882年までに現在の横須賀市街地の原型が出来上がっていた)。
また、横須賀が海軍の一大拠点となるにつれ、東京・横浜と鉄道で結ぶことが急務となり、1886年6月、陸海軍が内閣に鉄道敷設の要請がなされ、1889年6月に横須賀線が正式に開業しました(京浜急行線は1930年に開業)。
(4) 横須賀海軍工廠
1895年の日清戦争後、1903年、横須賀海軍造船所は「横須賀海軍工廠」に改称されました。帝国海軍の保有艦艇数も、日清戦争時は55隻のところ、1905年の日露戦争時には152隻を保有するまでに成長し、この後、1905年に4号ドック、1916年に5号ドック、1940年に6号ドックが完成したことで、1944年までに6つのドライドックで30隻(うち8隻は「信濃」(62,000トン)を含む空母)が建造されました(これらのドライドックは現在でも米海軍横須賀基地内で稼動しており、数多くの日米艦艇の修理に使われている)。
日露戦争を勝利に導いた戦艦「三笠」は、イギリスの「ヴィクトリー」、アメリカの「コンスティチューション」とともに、自国の独立を守るための重要な海戦で勇敢に戦い勝利したことから、「世界の三大記念艦」といわれています(三笠はイギリスに発注された6隻目の戦艦で、1903年12月には連合艦隊に編入された)。
なお、三笠は1923年9月に除籍となり、1925年1月に記念艦として横須賀に保存されることが決まりました。第2次世界大戦のあと、一時的に遊興施設として利用されましたが、1958年に再興された三笠保存会によって記念艦として復元され、現在に至ってます。
3 大正時代~現在
(1) 世界三大海軍へ
日露戦争での勝利で勢いづいた帝国海軍は、その後、1920年に軍艦保有トン数で世界第3位となり、イギリス海軍やアメリカ海軍と共に「世界三大海軍」と世界で称され、太平洋戦争では太平洋からインド洋にかけて広大な海域を制するまでになりました。
しかし、1942年のミッドウェー海戦での大敗を境に劣勢にたたされ、次第に戦力が消耗してレイテ沖海戦で壊滅状態となります。
(2) 敗戦、帝国海軍の解体
敗戦後、1945年8月30日に約2万の米英軍が横須賀に上陸し、帝国海軍は解体されました。そして、帝国海軍を支えてきた横須賀海軍工廠もアメリカ海軍に接収され、現在に至るまで米海軍横須賀基地(U.S. Navy Fleet Activities, Yokosuka)として使用されています。
(3) 米海軍横須賀基地
地元では「ベース」とも呼ばれる米海軍横須賀基地は、敷地の大きさは68万平米(東京ディズニーランドの約4倍)にも及び、アメリカ海軍のアジア太平洋地域における極東最大級の前方展開拠点となっています。
アメリカ第7艦隊に所属する原子力空母「ロナルド・レーガン」やイージス巡洋艦・駆逐艦等、10数隻の母港となっているほか、ベース内には在日米海軍司令部(Commander, U.S. Naval Forces Japan)や55の実動部隊や支援部隊のほか、12の工場が置かれています。
ちなみに、在日米海軍司令部には日米両国の国旗のほか国連旗も掲揚されているのですが、これは在日米海軍司令部が、未だ休戦状態にある朝鮮戦争(1950年)における国連軍への後方支援司令部として機能していることを意味しています。
ベース内には約1,200戸の居住区もあり、約8,000人の軍人、約5,000人の家族が居住しているほか、更に約5,000人がベース外に居住しています。
そのため、ベース内にはショピングモール、レストラン、カフェ、床屋、郵便局、映画館、プール、トレーニングジム、ボーリング場、ガソリンスタンド、教会、学校、巡回バス、タクシー等、様々な福利厚生施設が整備されており、まるで外国のような風景が広がっています。
(4) 海上自衛隊の創設
敗戦後、日本にはしばらく海軍不在の時期がありましたが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、海軍力再編の動きが活発化し、1952年4月26日、海上自衛隊の前身となる海上警備隊(1954年7月に海上自衛隊に改称)が田浦に発足します。
帝国海軍時代の横須賀鎮守府や海軍工廠跡地はアメリカ側に摂取されたままだったので、現在の逸見、吉倉、長浦、田浦、船越方面に海上自衛隊の司令部や総監部、港湾基地、警備隊、学校、教育隊、造修所、補給所等が相次いで新設されていったのです。
4 まとめ
1853年の黒船来航を機に、幕府は朝廷の意に反し200年以上続いた鎖国に終止符を打って開国し、条約締結、軍艦建造、造船所建設へと動き出す一方、朝廷をたて異国排斥を唱えてきた尊王攘夷派も、やがては欧米列強との国力差に危機感を覚え、次第に異国文化・技術を取り入れようとする開国派へと転向し、それが明治政府の富国強兵を推進する力となりました。
その富国強兵を支えたのはまさに近代日本海軍でした。黒船来航を機に建造が始まった海軍は、僅か半世紀でロシアのバルチック艦隊を打ち破るまでに急成長を遂げ、その後も弱肉強食の帝国主義の時代にあっても悠然と独立を保ち続け、やがては世界三大海軍と謳われるほどの栄華を誇りました。敗戦とともに帝国海軍は解体されたものの、新生・海上自衛隊が、今もなおその末裔として海洋国家・日本の発展と繁栄を支え続けています。
今年、日米安保条約締結から60年を迎えました。日本の近代史は、常に日米両海軍と、日本の海軍力を支え続けてきた横須賀とともにあったといえるのではないでしょうか。
【参考】坂本龍馬の妻「お龍さん」終焉の地
坂本龍馬の妻、楢崎 龍(ならさき りょう、通称「お龍さん」)は、龍馬が暗殺された1867年(26)以降、一時期、未亡人として土佐の坂本家に身を寄せましたが長続きはせず、各地を転々とし後に、1875年(34)に大道商人・西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして1906年(64)に亡くなるまで約30年の余生を横須賀で暮らしました。