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明治人に見るリーダーシップ論vol.1 ~人物をかたどる評判の功罪について

2020年に始まった大規模な感染症や欧州における地政学的なリスクに際し、さまざまな人たちが時局の打開を試みています。ある人は立場から、またある人は立場ではなく自発性から、国を問わない世界中の人たちがリーダーシップを発揮して、現在直面している不確実性を乗り越えようとしています。決して対岸の火事ではないこれらの世界史に残る大事件を前に、私たちは、ビジネスを維持、発展させるためにどのようなリーダーシップを発揮すべきなのでしょうか。それには現在だけではなく、過去にも刮目すべきだと考えています。過去との対話である歴史とは、しばしば未来に対する洞察を現在に与えてくれるからです。そこで今回は、不確実性に対する手段としてのリーダーシップについて再考するべく、過去の先人、特に明治人の振る舞いから、このリーダーシップについて考察したいと思います。


さて、本題に入る前に、いくつかの前提を整理したいと思います。

1.概要

①リーダーシップとは、「不確実性に対処するための方法論」と、便宜的に定義します。

リーダーシップ研究で知られるJ・Pコッターのリーダーシップ論を参考にさせていただきました。

②次に、ここでの方法論は、2つの視点で構成されています。

すなわち、不確実性下における課題の設定と、課題の推進です。つまり、これはどのような課題設定を行って、そしてどのように進めたのか、であり、これらはWHATとHOWに該当します。

③最後に、状況設定についてです。

ここでは明治時代の人物が直面した象徴的な事例を恣意的に取り上げています。司馬遼太郎氏は、「明治維新後の日本は、不分明で、維新の功労者でさえも何をしたらいいかわからない状態だった」と述べていますが、これはつまり、明治維新時の日本は、不確実性の高い状態だったことを示していると考えられます。リーダーシップが、仮に不確実性に対処するのであれば、明治時代に活動していた人物が遭遇した状況や行動を考察することは、リーダーシップの事例研究をする上で決して悪からぬ判断であると理解しています。

象徴的な事例を恣意的に取り上げているだけにすぎませんが、以上のような前提を基に、課題設定と課題推進の視点から、不確実性の高い状況に直面した明治人の振る舞いを見たいと思います。

では本題です。ここで取り上げる明治人は、大久保利通です。まず、大久保利通の評判を見てみます。裏切り者、権力欲、威厳、怖い、無口、など、同郷人(薩摩人)、内務卿時代の側近、あるいは歴史家に至るまで、さまざまな言われ方をされているのがこの大久保利通の特徴です。先般、テレビドラマで西郷隆盛を取り上げた作品もあったようですが、殊更にこうした印象に拍車をかけているように思えます。では、彼は、いったいどのような課題を設定し、どのように課題を推進したでしょうか。まずは、彼を取り巻く時代背景から述べたいと思います。

2.明治維新という不確実性

司馬遼太郎氏は、「明治維新というのは、それをやった人々にとっては闇の中を手探りするものであった」と述べています。大久保利通は、当時の公家の中で最も急進的であったされる岩倉具視や、盟友西郷隆盛、および長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)と共に、維新政府を大政奉還の実現から戊辰戦争の辛勝へと導きます。ところがいざ、明治政府を始めようとすると、何に着手し、どのように政府を作っていけばいいかは、わかっていなかったようです。ある歴史家からは、明治維新には青写真がなかった、と言われていますが、喫緊、近代国家づくりは、旧幕府の反乱を抑止するためにも必要でしたし、何より西洋列強諸国と万国対峙できる近代日本をつくることは必要不可欠でした。そのため大久保等は、近代国家づくりへの足掛かりとして、西洋の視察を行います。

3.近代国家に向けた課題設定

1872年に大久保利通、岩倉具視をはじめ、当時幼少だった津田梅子を含む約100人近い日本人が、米国をはじめとして、英国、フランス、ドイツなどの列強国の視察を行います。明治時代の日本人にとって、西洋の文明がいかに目新しいものであったか、当時の西洋の活性化した様子や、西洋文明を見て奮起する日本人の様子は、久米邦武による『米欧回覧実記』を通して今でもうかがい知ることができます。

ところで、この視察における大久保利通の最大のインサイトであったのは、イギリスの視察にあると言われています。産業革命を起こして当時、最強の国力を誇ったイギリスにおいて大久保が刮目したのは、イギリスが作り出した経済システムでした。このイギリスの経済システムとは、すなわち植民地から安く原材料を仕入れて、国内の機械で大量に製品を製造し、海外に対して高く売る、というものです。これにより経済的に富める国づくりを実現でき、さらに強い兵を作ることができます。このときのインサイトから推定されるのが、歴史の教科書で学ぶ「富国強兵」であり、「殖産興業」だと言われています。帰国の途、数か月間の船中において、大久保は富める国づくりと、産業の勃興を課題として設定し、さらにそのための算段を試案したに違いない、と思います。

4.明治6年の政変時の課題設定と課題推進

ところが、帰国した大久保等は、しばらくして大事件に直面します。いわゆる明治6年(1873年)の政変です。留守番をしていた政府は、重要決議を行わないという約束を破り、隣国の非礼を理由に征韓論を打ち立てて、軍隊を派遣しようとする政治的な意思決定を行おうとしていました。欧米を視察してきた大久保や岩倉にしてみれば、このような意思決定は、青天の霹靂であり、そんなことをしている場合ではない、と主張をします。

しかし、両者共に一向にひかず、最終的には、大久保は、伊藤博文や岩倉具視らをと共に見事な政治工作を行い、明治大帝の裁可の下、財政的理由から征韓論を退けます。しかしながら、これにより盟友西郷隆盛、板垣退助、江藤新平などの参議をはじめ、西郷を慕う近衛兵を含む数百人が、そろって辞職するという事態に発展しました。そしてこれがきっかけで、大久保は地元の薩摩から最も疎まれる存在となり、しばしばこの時代の象徴的な悪党として語られるようになります。無口で冷静な大久保自身にとって、同郷人から疎まれることは、おそらく感情的に処理できたと思いますが、盟友がいなくなってしまうことは、耐えがたくつらかったと想定されます。そして大久保は、大親友と決別したことにより、そのトレードオフとして近代国家建設の実現に向けた意思決定を粛々と行っていきます。

5.殖産興業という課題設定と課題推進

1877年に大久保の地元である鹿児島において、私学校の生徒が暴走し、政府との小競り合いを起こします。西郷隆盛はさらにこれに担がれてしまい、やがて全国の不平士族を巻き込んで、明治政府と戦争を行うことになります。いわゆる西南戦争です。私学校生徒との抗争が始まったときから、大久保は何度も「西郷は大丈夫」「西郷は参加しない」と、慌てる部下をいさめていたようです。しかしながら、のちに西郷が担がれている事実を大久保が知ると、「そうであったか」と述べ、「ハラリ」と涙を流したと言われています。そして彼は、冷静にそして粛々と鎮台の兵を使って鎮圧を断行します。

1877年の9月に激しい戦闘の末、西郷の自刃により西南戦争は終結しますが、このような背景の中で、大久保がどしどしと推し進めたのは、殖産興業による経済システムの樹立です。事実、戦争真っ最中の1877年の8月に、内国勧業博覧会というイベントを東京上野で行っています。この内国勧業博覧会とは、国内の紡績技術を広めるイベントであり、その目的は、輸出を念頭においた国内産業の発展を促進するための殖産興業政策のひとつです。

実は、大久保が国内に帰朝してから取り上げた中心的な産業というのは繊維業でした。大久保は、国内の生糸、綿などの製造事業を積極的に奨励し、強い国づくりを実現しようとしたのです。つまり、材料を安く集め、国内で繊維を製造し、商社を介して、海外に高く販売するという、いつぞやに夢見た経済システムを確立しようとしていたのでした。大久保はこの国の基幹産業を育む右腕として、佐々木長淳という人物をアサインしています。

佐々木の述懐では、「大久保翁とはオーストリアでの初見挨拶をしたくらいでしかなかったが、いざ自分が日本に帰国すると、当時出仕していた工部省から内務省への異動が決まっていた」と述べています。これは大久保が、オーストリアでの意見交換の際に資質を見抜き、人材の選出を即座に行っているように見られます。また佐々木は、養蚕、製糸、育種などの生糸の製造工程などにおいて、大久保は専門家をも驚かす知識を備えており、さらに目的の達成に必要な大規模工場の建設の上申を大久保が受けると、即座に意思決定をした、と語っています。佐々木は80歳を超えてもなお精力的に養蚕研究を行っていたようですが、その動機について記者に問われた際に次のように述べています。「自分はただ、故大久保公の志を成したいと思って、この年になってもやっております。」

こうした過程を経て、明治30年代後半、日本は生糸の世界最大の貿易輸出国にまで成長します。幕末の日本は、産業と言えば米しかなかった状況から、性質の異なる主幹産業を築き上げ、富める国を実現させる状況にまで至ったのです。大久保は、この小さな国の開花期において、自らが旗振り役として課題を設定し、さまざまな人や集団を動かしてその課題を推進したのでした。しかしながら大久保自身はこの功績を見ることはできません。

6.1878年の最後と数日前の大久保

西郷が自刃した翌年1878年5月、大久保は、西郷への罪を理由に、石川県の藩士等複数名により紀尾井坂で暗殺されます。側近らが現場に駆けつけたときには、大久保はすでに数十か所を刀などで刺されており、頭が割れて脳がはみ出た状態で、ビクビクと体が痙攣していたそうです。

実は、この数日前に気になるエピソードがあります。日本郵便の祖と言われる前島密は、大久保と親交があったようで、大久保の自宅に招かれたときのエピソードについて語っています。無口な大久保は、珍しく「こんな夢を見た」と前島に語ります。「西郷に追われ、自分が崖から落ちてしまう。脳が砕けて血まみれになった様子を、自分が上から見ている。不思議な夢だった。」大久保の側近たちは、無口な大久保がそっと微笑む瞬間を忘れることができないと時々語っていたようですが、もしかしたら、前島の脳裏には不思議な夢について語った当時の大久保の微笑が、このエピソードを語っている前島自身に想起されていたかもしれません。

大久保の血まみれになった衣服の内側には、折しも、生前の西郷隆盛から受けた手紙が、紫色の絹布に包まれた状態でしまわれたままだったそうです。この大久保の血がついてしまった西郷の手紙とは、以前から大久保が三条実美に貸していたもので、絶命する数日前に三条より返却してもらっていた手紙でした。襲撃を受けたとき、彼は、その数日前に受け取った西郷の手紙を、紫の絹に包んで懐にしまっていたのです。大久保利通のお墓は、現在、青山霊園の中心付近にひっそりと、悠然とそびえ立っています。

さて、以上のように大久保利通について、象徴的な事例を恣意的に取り上げて紹介してきました。裏切り者、権力欲、怖い、などの評判が大久保にはありました。一方で、事例を通して見える彼の姿は、不確実性の高い状況下において、目的に忠実だった彼の振る舞いです。その目的とはすなわち、万国に対峙できる近代日本国家の建設であり、富国強兵であり、そのための殖産興業の実現でした。彼は、この目的を実現するためにも、一時的な人の感情に左右されずに、やらなくてはならない課題を設定し、組織や集団を動かして、どしどしと課題を推進していきました。つまり、先の定義に基づけば、彼はリーダーシップを発揮した人、と言えると思います。そして同時に、無口で、表情がなく、恐れられた人物なりの、盟友を敬慕し続ける姿をも垣間見ることができます。

ところで、この副題は、人物をかたどる評判の功罪としています。脳は空白を嫌う、という言葉が脳科学にあるようですが、人は、ある人物に会うと、脳がその人物の印象を勝手に判断してしまう場合があります。この脳の働きは、しばしば自分が感じた印象だけではなく、人から聞いた話などによっても、印象を形成してしまう場合があるようです。さらに、こうした印象というのは、人の吹聴を通して一人歩きをし、やがては大きな評判となって、より多くの人々に肥大化して印象づけてしまうことも少なくありません。このような、熟考的(意識的)な判断を伴わず、偏った情報を基に直感的(無意識的)に下される判断は、一般的に、心理バイアス(偏見)と言われています。

もちろん、大久保利通に対する印象は、ある人から見れば事実そうだったのかもしれませんし、あるいは、私が述べた恣意的な見解がすでに、バイアスなのかもしれません。ですが、これは趣味的に歴史を考察する上では、お許しをいただけるのではないかと思います。

しかしながら、組織人事を決める重要な局面においてではどうでしょう。バイアスには、殊更に注意することが必要であると思っています。昇進、昇格、配置などや、特殊プロジェクトの人選など、組織人事の世界では、人に関わるさまざまな意思決定が行われています。これらの意思決定では、観察を伴った行動に着目することが大切だと思います。つまり、周囲からよい(または悪い)評価だから、といった安易な評判だけで判断するのではなく、目的に照らし合わせて、複数の視点で、多面的な場面を通して見えてくる人物評を基に判断する人選が大事だと考えられます。

のちに内閣総理大臣を歴任し、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設したとされる大隈重信は、大久保利通について次のように語ります。(一部現代語訳に変換)

「ある場合には、彼の性格はいかにも頑固に見えてかなり才略に乏しいように受け取られた。だが、これは要するに極めて強固なる意志の力と執着力がかなり猛烈なのであり、政治的熱心にたえず活動していた結果である。」
「たとえ彼に対する反対の声が、四方に起こっても、彼はちっとも恐れず、騒がず、うらまず、決して愚痴もこぼさなかったのである。ただ、自己の確信するところに向かって断固として敢行した。(中略)だから彼が行った仕事には、非常な成績が上がった。」(青年訓話)

維新前からさまざまな局面における大久保利通の振る舞いを、身近に見続けてきた大隈重信が語る大久保利通像には、安易な評判ではなく、行動や事実に刮目した人物的評価がなされているように思われます。

出典・参考文献:
J・Pコッター 『リーダーシップ論』 ハーバードビジネスレビュー 2012
スチュアート・サザーランド 訳: 伊藤 和子 他 『不合理 誰もが免れない思考の罠』 阪急コミュニケーションズ 2013
久米 邦武 『米欧回覧実記』 角川ソフィア文庫 2018
佐々木 克 『大久保利通』 講談社学術文庫 2004
佐々木 克 『大久保利通と明治維新』 吉川弘文館 2004
司馬 遼太郎 『飛ぶが如く』 文春文庫 1980
波頭 亮 『経営戦略概論』 戦略理論の潮流と体系 2016
毛利 敏彦 『大久保利通』 中公新書 2017

■執筆者プロフィール

システムエンジニアリング学修士
MSCにて営業部門に所属、主に企画業務に従事
鳩居庵

【ライフワーク】
西洋のアプローチを用いて東洋の歴史や考え方を考察するための方法論について研究中

【最近の関心事】
・世阿弥の『風姿花伝』にみる競争戦略について
・『日本永代蔵』にでてくる三井高利の戦略人事について
・偶然性と創発性について

【日々研鑽】
・木を見て、森も見る
・多様性、集合知、創発性
・まことに日々に新たに、日々日々に新たにして、また日々に新たなり

会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント


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