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「空」と「縁起」〜中論の話。考察の続きだよ。

前記事より調子に乗って仏教話を続けます。


言葉を難しくするな。

私は、難解な言葉使いが嫌いです。例えばこんなの。

中論における龍樹の主張の根幹は、縁起説を実在的に捉える説一切有部への批判であり、帰謬法・背理法を用い、徹底的に論駁を加え、それら法の実在的論理を批判した。

適当に書いただけですけど、こんなのよく見ません? 別に良いんですけど、学術的な体裁を装えば、正しいことを言っているように見える感じ、その雰囲気が嫌いなんですよね。学者先生などの商売上、やむを得ないとは思うものの、もうちょっと言葉を自由自在に使ったほうが良いんじゃないのかなぁと思ったりします。

さて、前回の記事で、空とはこんなことだよーっぽい話をしました。分かる人には分かるだろうし、とは言えわかんない人にはさっぱりわからない話かもしれないのですが、「俺たちは雰囲気で株やってるんだ」((c)三田紀房)的なつもりでいい加減な事を書いているわけでは決してありません。文章中に息抜きのつもりで、そうした表現を用いていますが、内容はしっかり考えています。結構集中力いりますよ。実際、かなり難しいんです。このこれを書いている私自身が言葉の意味にどうしても囚われがちだからです。

言葉は、それを見る、あるいは聞く相手に「何か」を伝える目的で使用されます。例えばそれは、自分の気持であったり・考えであったり・意志であったり・決意であったり・反省であったり・謝罪であったり……と様々な目的のために使用されます。同じ「ありがとうございます」という言葉でも、使う側・理解する側で、いわゆる「意味」は様々に変容してしまいます。私は般若心経や空の説明で、それを繰り返し何度もお話していますよね? 言葉それ自身に意味は「ない」のであって、意味は言葉を使う・受け取る人が心のうちに生じさせるものなのである、と。今回の話は、実はそのような話です。また同じ話か!と言わないでくださいね。


大乗仏教運動と龍樹

仏教は、ゴータマ・シッダルタの時代からやがてそれら教えを守ろうと、文字に残したり、様々な形で体系化・分類などの整備が行われるようになって、学術的な成長をするようになります。小学校が大学になって難しくなっていくようなものです。それ自体は、どんな分野でも成長の仕方としては普通でしょう。しかし、問題が生じます

そうした学術的なやり方は、今でもよく言いますが、学者が難しいことばかり考えてその成果を自分たちのものだけに独占していて、世間には何の役にも立っていない、って聞いたことありませんか? 現代社会の話ですよ。例えば、大学の文系などは、「社会に役立たない」などと批判されて予算削減されたり場合によって学部ごと消えたり、基礎研究的な理系分野でももっと実用に重きをおくべきだと言って予算削減などで苦しめられているとニュースにもなっていますよね?

それと似たようなことが仏教でも起こったのです。仏教は、当時の貴族達に加護されましたので、立派な寺院などを作ってもらい、仏教徒達は仏教理論を詳しく緻密に体系的にまとめたりしておりました。理論体系や修行方法を整備し、仏教をより高等なものに仕立て上げようとしたわけです。しかし、それらはただ寺院の中で仏教を自分たちの頭の中で独占しているだけであり、仏教は本来は民衆を救うためにその法を説いて回らねばならないものではないのか、と批判が起こります。それを大乗仏教運動と呼びます。そして大乗仏教運動の人たちは寺院にこもる研究者たちを小乗だと言って批判したわけです。仏教はそんな小さな乗り物ではなく、もっと大きな乗り物であるべきだ、というわけです。

その大乗仏教運動の中心人物が、仏教の中興の祖とよばれるナーガール・ジュナ、漢字で龍樹と呼ばれます。

仏教ではとても重要な人物であり、釈迦に匹敵する存在だとか言われておりますが、私はあんまり良く知りません。すみません、私いい加減なんで、自分が興味持つことしか頭使わないもので(笑)。ともかく、龍樹は大乗仏教の中心人物であり、有名な仏教の空の理論を完成させたとも言われる『中論』という書物を残します。


中論がわからない。

その中論なんですけど、般若心経と一緒で、最初読んだとき、ほんとに何が書いてあるんだかさっぱり全然わかりません。この中論を知ったのは、以前の記事で紹介した悟空さんがよく言っていたからなのですけど、全くわかりませんでした。確か、レグルス文庫の三枝先生による邦訳本だったと思いますけど、まーーーーーーーーったくわかりません(笑)。

結構いろんな他の本など読んで、理解に努めようとはしました。日本の仏教研究の第一人者だった中村元先生の解説なども読みましたけど、全然さっぱり納得できませんでした。少しどんな感じか、少し一例を書いてみましょう。

去ったものは、すでに去っているので、去らない

まだ去っていないものは、まだないのであるから、去らない

それ故に去るものなど存在しない。

何言ってんだかさっぱりわかりません。これ運動の否定とか言われる論証なんですけど、ゼノン(ギリシャ時代にいたとされる哲学者)のパラドクスと呼ばれるものによく似ています。ゼノンだとこんな感じです。

もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない

これも運動の否定と呼ばれます。こっちの方は簡単で、お前らあの矢は動いてるっつーけど、その矢をじーっと目で追っかけてたら、一ミリも動いてへんやないか、つっとるんです。わかりにくかったら、動画撮影で飛んでる矢を焦点合わせて追っかけてる動画映像を想像してみてください。動画の中で矢は止まってるでしょ? 単純な詭弁ですな(笑)

しかし龍樹の方は、何言ってんだか理解不能です。去ったものが去らない? いや、去ったんですから、去ったんじゃないっすか、……てことは去ったんだから……えっ、あれ?このおっさん何言ってんだ? てな感じ。私本気で、これをあちこちで説明書いてるいろんな学者さん、本気でぶん殴ろうかとすら思いました。だって、全然わからんのですもん。


でも中論は実は超簡単。

実は違うのです。学者先生みんな間違いです。――はい、出ましたね、私の十八番「従来説は間違い」セリフ(笑)。つまり、運動を否定しているのではないのです。これ、むしろ逆なんですよ。

去る、とは何か。A地点からC地点に人が移動する、と考えてみましょう。そしてその中間地点B地点にあなたが立ってその人を見ているとします。時刻T1にA地点にあり、時刻T2にB地点、時刻T3にC地点と、その人は移動します。つまり、


・A地点にその人がいるとき(時刻T1)は、あなたにとってその人は去っていないし、

・B地点にいるとき(時刻T2)もその人は目の前にいるんだから去っていないし、

・C地点にいるとき(時刻T3)もその人はC地点にいるんだからその人は去ってないのです


ゼノンのパラドクスに似ていますが、これは全く違います。ゼノンは時間を止めてしまうので運動否定の詭弁になっていますが、龍樹は時間を否定していませんから、運動は否定されていません。龍樹はただ、言葉を厳密に正しく使っただけです。或いは正しく思考しただけ、とも言えますが。

私達は「去る」という言葉に騙されるんです。去ると即ち、例えば、人は過去から来て未来へ去って行く(あるいはその逆に、未来から来て過去へ過ぎ去っていく、なんて言い方もしますね)のだと、普通理解します。すると、一体その人はどこにいるのでしょうか?過去は、今にないし、未来も今にありません。じゃぁ今は?って言うと、今なんて、存在時間ゼロです。数学のデーデキントの切断じゃありませんけど、「今」なんて、時間直線の切断面でしかなく、抽象的な点みたいなものであり存在しないとしか言いようのないものです。すると、その人はどこにも存在しなくなってしまいます。そんな馬鹿なはずはありません。

人はすっかり自分自身のことを忘れてしまうんです。去るという言葉は、あなた自身がその人を見てそう言っているのです。要するに龍樹の言わんとしていることは、(実在を)否定しているのではなくて、物の見方・考え方を否定しているだけなのです。あっ!そっかっ!って気付けましたか? わずかにでも気付いてくれたら嬉しいですね。アハ体験みたいな(笑)

自分自身があるからこそ、その人が去るということが認識できるのであり、そのことを縁起というのである、と龍樹は言うのです。突然「縁起」なんて言葉出しましたけど、物事を考えるとき、自分自身と他者という関係は切ってはいけないのです。これが縁起というものの考え方なのです。

ところが、少し話を戻しますが、いわゆる小乗仏教が仏教論理を体系的に整備しすぎたため、人は縁起という法則がまるで魔法のようにこの世に実在すると誤解するようになったのです。というか、誤解を招くくらいに整備しすぎたのです。そのような誤解を解くために、そうした議論を徹底的に論駁するという方法を龍樹は中論で長々と示したのですね。多分、いろーんな議論があったのでしょう。

龍樹は、いやいや君たち上座部の皆様、あなた達頭でっかちは頭いいから仏陀の教えは何も間違っていないと考えすぎであり、私達自身が、仏陀の教えを使わなければ何の意味もないではないか、と。そんなもんただの絵に描いた餅みたいなもんやないか。使わな意味あれへんで、って感じだったんじゃないでしょうか。

ですから、よく言われる通り、実在論という誤解を招くような考え方は否定しましたが、別に龍樹は実体など否定しておりません。前の記事で空は実体の否定にあらずと私は申し上げております。そもそも、小乗と呼ばれた人たちだってそんなのわかってたはずです。仏教は決して魔法の実在論などではないって。ただ、非常に誤解を招くと言うか、世の中に対して法を説いていかなければ、駄目だ。仏陀の教えが死んでしまう、そんな風な危機感の持ちようだったと空想します。

なお、細かい十二支縁起であるとか、そういった仏教実践論理については私は何も解説したりはしません。これはこれで、その時代の苦しみを解決するための一つの考え方であり、今も使えなくはないとは思いますが、もはやいらないでしょう。現代社会においてはお悩み解決方法なんていくらでもありますし、仏教については基本理念・概念だけ知っていたら良いのではないかと思います。知りたい人はね。

ではでは。


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