【能力は文脈依存!】それって「コミュ障」じゃないかも
最近、村中直人氏の新著『ラーニングダイバーシティーの夜明け』出版を記念した哲学者・苫野一徳氏との対談から、非常に興味深い学びを得ました。特に印象的だったのは、「人間の能力は個人の中に閉じ込められているものではなく、文脈によって大きく変化する」という考え方です。
この考えを日常的な例で説明してみましょう。「私はコミュ障だ」と悩む人がいますが、実際には相手や場面によって話し方が大きく変わることがあります。まるで別人のように、ある場面では言葉につまり、別の場面では饒舌に話せるのです。これは、氷が温度によって固体にも液体にもなるように、私たちの能力も環境によって様々な形で現れることを示しています。
私自身の経験を例に挙げると、子どもたちと話すときは言葉が自然と溢れ出てきます。一方で、大人と話すときは時として緊張を感じることがあります。ただし、哲学など深い話題に興味がある方との会話では、時間を忘れて話し込むこともあります。つまり、相手や話題、場所、目的によって、同じ「私」でも全く異なるコミュニケーション能力を発揮できるのです。
この視点は教育現場にも重要な示唆を与えてくれます。例えば、ある生徒が授業中はなかなか理解が進まなくても、それは単にその「文脈」に合っていないだけかもしれません。実際に、日本語をうまく話せなかった生徒が、コンピューターゲームを使った学習では目覚ましい進歩を見せたという例もあります。
このように考えると、「できない子」「苦手な人」といったレッテル貼りの多くは、その人に合った環境や方法を見つけられていないだけかもしれません。マラソンが苦手な人でも、水泳なら楽しめるように、誰もが自分に合った形で能力を発揮できる可能性を秘めているのです。
この新しい視点は、教育や社会における不必要な差別をなくし、一人ひとりの可能性を最大限に引き出すヒントとなるのではないでしょうか。私たちに求められているのは、「その人にはできない」と決めつけるのではなく、「どんな環境なら、その人の能力が輝くのか」を考えることなのかもしれません。
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