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西田幾多郎が説く『真の自由』とは


西田幾多郎の「善の研究」を読み返して、新たな発見がありました。

最初に読んだときは、西田の言う「善」とは、自分の欲望や判断を捨てて、宇宙の意思と一つになることだと表面的に解釈しました。例えば「自己の主観的空想を消磨し尽くして全然物と一致したる処に、反って自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのである」といった記述から、これは個人の自由意志を否定し、全体主義につながる危険な考えではないかと懸念を抱きました。

しかし、読書会に参加して本を読み返すうちに、この解釈が間違っていたことに気付きました。実は西田は、「知識が進むほど、より自由な人間になれる」や「自己の内面的性質より働いた時、反って自由であると感ぜられる」とも述べているのです。

「意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、反って自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むとともにますます自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。さらに、進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑圧が反って自己の自由となる」(西田幾多郎「善の研究」講談社学術文庫 第三章より)

一見矛盾するように見えるこの主張には、深い意味がありました。西田の考える「自由」とは、単なる気まぐれな選択ではありません。表面的な自我による恣意的な選択でもありません。むしろ、人間の内面の深いところから自然と湧き出てくる、必然的な自由なのです。言い換えれば、自分や物事の本質を知ろうとするプロセスの中で形成されていく必然的自由と言えるのではないでしょうか。だからこそ、表面的な次元で抑圧を感じたとしても、自分や物事の本質を洞察している次元では自由を経験しているというわけです。

これは、例えば芸術や武道の達人が、長年の修練を経て、意識的な判断なしに自然と体が動くようになる境地に似ています。表面的な自我による選択の次元の話ではなく、深い次元での本来の自己による自由は肯定されるのです。

この考え方は、やや抽象的で日常生活にすぐに応用するのは難しいかもしれません。しかし、人間の内面を豊かにする努力を重ねることで、より深い自由を実感できるということに関しては、私たちは同意できるのではないでしょうか。この読書を通じて、「自由」についての理解が大きく深まりました。

【参考文献】
西田幾多郎「善の研究」(講談社学術文庫)

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