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「訂正の力」を再読し以前の感想を「訂正」してみた!

東浩紀氏の「訂正の力」を再読して、新たな視点が見えてきたように思います。

「訂正」という概念について、私なりに理解を深めることができました。それは過去を完全に否定するのでも、そのまま受け入れるのでもない、もう一つの可能性を示唆しているのだとわかりました。例えば、私たちが当たり前だと考えていた歴史的な出来事の解釈を「実はこうだったのではないか」と積極的に見直すことで、過去と現在、そして未来との新たなつながりが見えてくるということなのでしょう。

最初に本書を読んだ時は「面倒ではないか。すべてリセットして一からやり直せばよいのでは」という素朴な感想を持ちました。しかし今回の読み直しを通じて、そのような単純な解決策は現実的ではないのかもしれないと考えるようになりました。歴史が示唆するように、過去との繋がりを完全に断ち切ることは難しいように思われます。むしろ強引なリセットは社会の安定性を損なう可能性すらあるのではないでしょうか。このような観点から、伝統を受け継ぎながら少しずつ創造的に解釈を更新していく「訂正」という方法には、一定の意義があるように感じられます。


ただし、この「訂正」という考え方にも、いくつかの検討すべき点があるように思われます。まず、訂正を行う主体の問題です。その主体が明確でない場合、権力者や社会的影響力を持つ人たちによる恣意的な解釈・操作が行われる可能性も否定できないのではないでしょうか。

また、「リセット」と「訂正」の境界が必ずしも明確ではないように思われます。例えば明治維新は、武士社会から近代国家へのリセットとも捉えられますし、王政復古という形での過去との連続性を意識した訂正とも解釈できるかもしれません。同様に戦後改革についても、軍国主義の否定というリセット的な側面と、象徴天皇制存続という連続性の側面の両方を見出すことができるように思われます。


本書では、古代ギリシャの事例を引用し、内乱の記憶を「忘れる」という決定によって平和がもたらされたという興味深い指摘がなされています。これは「幻想なくして平和なし」という主張につながっているようですが、この点については慎重に読解したいと思います。果たして幻想だけで本当に平和は実現できるのでしょうか。幻想はあくまでも幻想であり、それに対する社会的な合意を形成することは現実的には困難なのではないでしょうか。

また、「喧騒」のような非政治的な要素も、それ自体では社会の安定性を保証するものとはなりにくいように思われます。東氏は「平和とは政治の欠如である」と述べていますが、むしろ東氏がここで主張しているのは、政治と喧騒のような非政治的な要素との間に創造的な緊張関係を築きながら、より現実的な平和構築の道を模索していくことなのかもしれません。


これらの学びは、国の歴史を考える際だけでなく、私たち一人一人が自身の人生を振り返る際にも、何らかの示唆を与えてくれる可能性があるように思われます。「訂正」という概念は、過去との対話を通じて未来への展望を開くための、重要な手がかりとなるのかもしれません。ただし、その過程において、単なる幻想や理想論に終始するのではなく、現実的な社会の合意形成のあり方についても、併せて考えていく必要があるのではないでしょうか。​​​​​​​​​​​​​​​​

野中恒宏

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