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30歳で見つけた縄跳びという稽古

30歳にして、まさかの縄跳び熱。

この単純な運動具が、なぜこんなにも心を掻き立てるのか。ただ回すだけなのに、全身に電流が走るような興奮。思わず、足がぴくぴくと動き出す。縄跳びを「練習」ではなく「稽古」と呼びたくなる。国技と比べるのは僭越かもしれないが、それほどまでに重要な意味を持つ。

初心者の域を出ない自分。想像の中では華麗に跳ねる姿なのに、現実は失敗の連続。縄跳びの美しさは、その二元性にある。成功か失敗か、中間はない。成功すれば爽快感、失敗すれば痛みを伴う。それでも、なぜかやめられない。体と心、エネルギーと力強さが一体となる、あのvisceralな感覚に魅了されて。

単純なものに惹かれる性分なのかもしれない。懸垂、腕立て、逆立ち‥‥自重トレーニングの虜だった俺が、今や縄を手放せない。外の世界を即席ジムに変える魔法。それが自重トレの美しさだったはずなのに。

でも、何かが足りなかった。「心技体」のバランス。美しく生きるために不可欠な要素。自重トレーニングは「技」と「体」を鍛えるけど、「心」がどこか置き去りにされていた気がする。美しい懸垂のフォームを追求しても、血流は心を避けて腕へと向かう。何年も続けて、やっと気づいた。

他のトレーニングも試した。フリーウェイトで特定の筋肉群を鍛え、ボルダリングで握力と問題解決能力を磨き、ローイングマシンで全身の持久力を向上させる。どれも素晴らしい。でも、縄跳びには特別な何かがある。

重りなしの縄と重り付きの縄。全く異なる体験だ。重り付きの縄で筋肉が燃えるような感覚。普通の縄で長時間跳び続けると、前髪から汗が滴り落ちる。まだ様々な跳び方を試していないけど、これからの探求が楽しみでたまらない。

なぜこんなに惹かれるのか、まだ完全には分からない。ただ、美しく生きることへの道を示してくれているような気がする。心と体をより強くする方法を。三島由紀夫を思い出す。彼の肉体改造への執着、完璧な身体を作り上げることへの情熱。それは単なる健康や強さの追求ではなく、美しく生きることの一つの形だった。彼の人生の終わり方は悲劇的だが、その美への追求には共感せずにはいられない。

縄跳びの魅力は、その容赦なさにもある。ウェイトトレーニングや自重トレーニングなら、フォームを崩せば何とかなる。ボルダリングなら、難しい課題は諦めて次に移れる。でも縄跳びは違う。成功か失敗か、その繰り返し。失敗しても、また跳ぶしかない。その単純さが、美しい。

突然の縄跳び熱。人生にはこういう予期せぬ情熱との出会いがある。なぜ?と考えるより、ただ跳び続けることが大切なのかもしれない。この単純な動きの中に、美しく生きるヒントが隠されているような気がして。

そういえば、三島の『金閣寺』(英語版)を読んだことが、日本語学習のきっかけになった。彼の思想や文章に触れ、運動への姿勢に共鳴したのは、今の自分につながる重要な一歩だったのかもしれない。

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