わたしの,あなたの,note
このnoteあなただけのものである。
今日,喫茶店でコーヒーを飲みながら小説を読んでいた。読んでいると自然と光景が頭に浮かぶ。ひとしきり読んで区切りをつけた後,同じ小説を読んでも人が違えばその光景も違うんだろうな,と当たり前のことを考えて,少し怖くなった。
表面的には同じ小説を読んでいても,厳密には同じ体験をしていないということが怖くなった。だったら小説について語るとき,我々は一体何を土台に話をしているんだ?
自分が表現したかったものは,本当の意味で読み手に伝わっているのか?
そもそもの話。文字というのは,物事を極限までに圧縮したものである。
例えば,「投げる」と一言に言ってもプロピッチャーのフォームなのか,ちびっ子のたどたどしい様子なのかはその一言だけでは分からない。どれだけ修飾しても,同じ様子を誰にでも思い浮かべられるように表現するのは不可能だろう。
「赤い」と言っても個々人で思い浮かべる赤さは違うだろうし,「夕焼けのような赤」と言ってもそれが子供が帰りだす時間のような赤さなのか,すっかり日が暮れる直前の薄暗さの中にある赤さなのかは定まらない。
こうして言葉にするときにそぎ落とされた要素は,二度と同じように復元されない。二度と言葉にする前と同じものにはならない。
だから,表現したいことを作者が圧縮して,読者が解凍するとき。その瞬間その文章はその人だけのものになる。
これは書く側からすれば絶望でもあり希望でもあると思う。どんなに言葉を尽くしても思った形で伝わることは完全には不可能である一方,そのゆらぎの中で届くはずのなかった人に届くこともある。
だから,このnoteはもうあなただけのもの。これまで私が書いてきたものもそうだし,これから書くものもそう。
それは少し怖いけど,ゆらぎの中であなたの一かけらになれたらいいな,と思う。