お葬式という「悲しさ」の演出
涙を流しても、目の前の人の命は戻ってこないということを、誰しもが理解しているはずだ。でも、「死」という現実を受け入れられず、涙を流す。
私は、祖父が亡くなった時、涙一つ流さなかった。
ただただ、喉の奥に溜る痛みに耐えた。
確かに、人の死を目の前にした時、後悔したり、その人との思いでを思い出したり、色んな感情が交差することだろう。
自分の感情に身を任せ、涙を流すことは悪いことだとは思わない。しかし、悲しみを表すものは泣くことだけではないということも知って欲しい。
私達はきっと「いつ死ぬか分からない」と思いながらも、「まだ大丈夫」だと心の中で思っている。だから、「もうすぐ死ぬかもしれない」というサイレンが鳴り響く時、この世の終わりかのように慌てだすのだ。
棺桶の前で「親孝行してやれなくてごめん」と涙を流しながら、言葉をかける母親をみて、私は悲しんでいるという演出をとても気持ち悪いと思った。本当に悲しかったのだとは思っている。ただ、親戚が見つめる中、最後まで、謙虚な娘らしさを表現する自分に酔っているのだろうとすぐに分かった。
出棺前、泣いていないのは私と、5歳児の親戚だけだった。
それでも私は、祖父の死を目の前に安堵した。
戦時中、戦後と闘ってきた祖父を側でみてきた。
母親が知らない祖父の食べものも知っている。
海外に行く度にお土産を渡しに行った。
特別な話など何もしてこなかったが、それで十分だった。
私の父親が家を出た途端、「可哀そうな子」だと言われても、声を荒げることはしなかった。
歳をとる祖父母を眺めながら、デジタル機器に残そうと綺麗な写真をたくさん撮った。
できないことが増えても、それが歳をとることなのだと、祖父から学んだ。
私は、こういった出来事を自分の目で見て、感じることも「生きる」ことだと思っている。だから、何一つ後悔だってない。
祖父の死は突然死なんかではなかった。
病院に入れば、身体が衰弱していくことなんてわかっていた。
だから、祖父の死に、一つの人生を終えられることができて良かったと安心したのだ。
それなのに、コロナで病院に入れないのでテレビ電話を繋ぎ、見慣れない祖父の弱った身体を目にし、皆は信じられないといった表情で見ていた。
私は、この当たり前の状況にいちいち、リアクションをとる大人がとても嫌いだった。
祖父の為にこんなことをしてやろう
これが好きだったから食べさせてあげよう
そうやって、必死に動く姿を見て、
ああ、この人達は、
祖父が迎えようとしている「死」に自分は加担していないのだと証拠作りをしているだけかと、思った。
そんなことから、又、私は勉強した。
自分が「死」を迎える時は、こんな風に他人の「死」にも敏感であった私を思い出して欲しいと願う。
何にでも合理的に考えてしまう私だからこそ、
きっと自分が死んだって、驚かない。
だから、「本人はどうせ死ぬ準備なんてできてたでしょ」って、少し怒られるくらいが丁度良い。
「死」はそんな簡単に割り切れるものではないかもしれない。
でも、だからこそ、
私達は普段から他人の「死」にも敏感でいよう。
そして、準備をしよう。
ニュースで流れている死亡も、
噂で聞く誰かの死も、
親戚の死も、
みな、同じ「死」だ。
だから、どんな時でも、
死を迎えいれる覚悟をしておきたい。
そして、そんな中でも今はまだ生きたいと思っているから、
この世に自分は存在しているのだと、今この瞬間を生きている自分を褒めてあげよう。
誰かに何かをしてあげたいと思う気持ちを大事にしたり、
自分の感情を言葉にして伝えてみたり、
友人が喜ぶことを考えてみたり、
誰かの誕生を祝ったり、
そんな何気ない日常生活の中でも、
いつくるか分からない「死」を考え、丁寧に生きたい。
p.s
「長生きしてね」って酷な言葉ですよね