今日は終戦記念日終わらない戦争―救済されない戦争被害者①
8/15、今日は78回目の終戦記念日です。
今日は、戦後の補償はどうなっているのか、調べたのでまとめました。
1937年に始まり泥沼化した日中戦争を終わらせることなく、大日本帝国は1941年12月8日英米に対して宣戦布告をしました。
英米の準備不足もありはじめこそ勝利しましたが次第に敗退を重ねます。
1944年6月のマリアナ島海戦で惨敗し、サイパンなどのマリアナ諸島の島々を米軍に占領されてしまいました。
これにより米軍は大型爆撃機B29による本土空襲が可能となりました。
1945年になり、日本の都市は繰り返しB29による焼夷弾空襲を受けます。
最も被害が大きかったのが3月10日の東京大空襲。
死者10万人、被災者100万人という大惨事でした。
終戦までに日本の67都市が空襲されました。
空襲による死者は60万人といわれています。
多くの都市が焼きつくされ、市民は家を焼かれ家族を失い路頭に迷いました。
特に悲惨だったのが親を失った戦災孤児です。親と一緒に逃げる途中で親が死亡した子どもがいます。
また学童の多くは空襲を逃れるため地方へ疎開していました。
疎開中に親を亡くした子どももいます。
これらの戦災孤児は筆舌に尽くしがたい苦労をして戦後を生き抜きました。
親戚に引き取られた子どもが最も多かったですが、家族と思ってもらえず使用人扱いされて虐待されました。
他には施設に収容されたもの、浮浪児となって路上で盗みなどの犯罪で暮らすものもいました。
戦後の混乱から国の保護もなく実態調査もされなかったので、実数の把握もできていません。
そして戦後今に至るまでこれらの民間空襲被害者に対しては何らの補償もされていません。
第二次世界大戦までの戦争では海外が戦場でした。
しかし、アジア太平洋戦争では、航空戦力の発達で、開戦わずか4ヶ月後の1942年4月B25爆撃機が東京、横浜などを空襲しました。
これに対して政府は1942年に「戦時災害保護法」を成立させました。
敵機の空襲や砲撃などによる被害のみならず、味方の高射砲や交戦国ではない国が敷設した機雷による災害をも「戦時災害」として被害者と遺族に補償を行うものです。
1945年時点での補償と援護は7億8560万円。同じ時期の軍人軍属に対する補償と援護は2億2771万円でした。
敗戦後、GHQにより軍人恩給も「戦時災害保護法」も廃止されました。
戦争被害に対しては、軍人であるか民間人であるかを問わず、同じ社会保障制度の中で対応すべきであるという考えに基づいています。
ところが、サンフランシスコ講和条約が締結され主権が回復すると、政府は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定しました。
次いで1953年軍人恩給も復活させました。
しかし、「戦時災害保護法」は復活させませんでした。
軍人・軍属らは国が雇用していたが民間人はしていない。
だから民間人には補償しないというのです。
軍人恩給は遺族にも支給され物価水準に合わせて変わります。
支給総額の最高は1983年度の1兆7358億円。2005年度までの28年間年間1兆円を超えていました。
2020年現在恩給受給者は22万2000人、支給総額は1583億円です。
民間人には補償しないというのが国の立場ですが、現実は国民の声に押されて、雇用関係のない民間人への補償と援護を広げています。
1967年「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」が成立します。
さらに南満州鉄道株式会社(満鉄)の職員や民間軍需工場の従業員、従軍看護婦、原爆被爆者、沖縄戦の一部民間人など国に雇用されていなかった被害者たちへの補償や援護を国は徐々に拡大してきました。
しかし、民間人空襲被害者には何の補償もありませんでした。
けれども、戦後偏見や差別を恐れて被害を隠していた戦災孤児などの空襲被害者たちも、徐々に補償を求めて声をあげるようになっていくのです!
参考文献「東京大空襲の戦後史」栗原俊雄 岩波新書
執筆者、ゆこりん