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”Education” の訳語 発育 教化 教育


”Education”の語源ラテン語の”educare”の意味

英語”Education”は、ラテン語の”educare”に由来する言葉です。 ”educare”は、”e”は「外へ」を意味する接頭語、”ducere”は「導く」を意味する動詞で、「外へ導く」という意味になります。

しかし、最近の研究では、この解釈は誤りである可能性が指摘されています。古代ローマにおいて、”educare”は「養う、育てる、大きくする」という意味で使われており、乳母が子供を養育することを意味していました。

「子孫の教育(educatio prolis)とは、ラテン語の文法で女性主語を要求する語である。それは雌犬や雌豚であろうと、人間の女であろうと、食物を与え育てるという母親の仕事を意味する」

イヴァン・イリイチ、玉野井芳郎・栗原彬訳、1982、『シャドウ・ワーク』、岩波書店

https://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/ronbun03.htm

中世の”Education”の語彙の変遷

アリエスによると、中世には現代の教育という行為を示す2つの違った観念が認められるそうです。

1つ目は、見習奉公という目的での教育行為
2つ目は、学習、教授といった、知恵の伝達行為としての教育。(学校)

具体的には、W・フォン・ヴァルトブルクの辞典1527 年に ”education”という言葉が現れてから、当初は”instruction”(知恵の伝授)と対立する言葉として使われていました。しかし、1680年フランス語辞典には、教育が「人びとが子どもを育て教える ”instruire” 方法である」と説明されるようになり、”instruction”と”education”の区別がなくなり、18世紀頃には、見習奉公の教育は、消えました。

フィリップ・アリエス、中内敏夫・森田伸子訳、1992、『「教育」の誕生』、藤原書店

資本主義社会における education としての教育を求めて ー各市民の教育者的責任の考察
Searching for Education under Capitalism:
Discussion on Every Citizen’s Responsibility as a Teacher
Kyushu Communication Studies. 2006. 4:9-29
©2006 日本コミュニケーション学会九州支部

アダムスミスにおける”Education”

アダム・スミスは ”education”に訓練などを含ませてはいませんでした。

「ロックやルソーなど古典近代期の education 概念は、知育、徳育、体育、美育といった様々な領域を含み込んで構成されていた。これに対してスミスの education 概念は、訓練や規律を含みこまず、それらとは異なるものとして考えられていた」

「education 概念については、discipline や exercise などと併記される箇所が発見された。また、「読み書きかぞえること」に対象を絞って用いられている箇所もみられた。アダム・スミスにあって education(教育)と、discipline(ふつうは訓育、規律)または exercise(訓練)とは区別されて使用されていたのである。スミスにおける education 概念は、「訓育」と対をなす「知育」を意味」

アダム・スミスにおける道徳哲学論
平岡さつき Mar.2008

https://core.ac.uk/reader/141876650

”Education” 英語の意味

『ランダムハウス英語辞典』での”Education”

『ランダムハウス英語辞典』での”Education”は以下のとおりです。

  1. teaching、指導、または学校によって(人)の能力や力を開発する。

  2. 特定の職業、実践などのための指導や訓練によって資格を得る;訓練する:法律のために誰かをeducateする。

  3. educationを提供する;学校に送る。

  4. (耳、味覚など)を開発または訓練する:美味しい食べ物を評価するために自分の舌をeducateする。

田中萬年氏による”Edcation”翻訳批判

田中萬年氏は上記『ランダムハウス英語辞典』での”Education”など各種英語辞書から「教育」と訳したことは妥当ではなく「能力開発」という概念を再検討と批判しています。

“Education”は「教育」ではない 職業能力開発総合大学校 田中萬年https://www.tetras.uitec.jeed.go.jp/files/data/199906/19990617/19990617.pdf

明治教育の呪縛-誤解させられてきたいきさつ-第4章 "Education"訳の詐偽
http://noukai.stars.ne.jp/img/04syou.pdf

明治教育の呪縛-誤解させられてきたいきさつ-第5章 「教育」と"Education"の同定http://noukai.stars.ne.jp/img/05syou.pdf


大久保利通「教化」と福澤諭吉「発育」と森有禮「教育」論争

”Education”の和訳にあたって、ひとつの言い伝えがあります。それは以下でした。

「educationという英語の翻訳語を巡って大久保利通と福澤諭吉と森有禮が論争したという。その中で大久保は「教化」が望ましいと主張し、福澤は「発育」が適訳であるといい、森有禮はその間をとって「教育」とした。」

「「教育」というコトバは」
「日本でも江戸時代中期以降に用いられることもあった。しかしその語は儒教の精神に基づき支配階級だけに用いられ「自分が修養をつんで徳を身につけ,周囲に影響を及ぼす」という自動詞として用いられたのであり、これに対して明治以降になるとそれは一般の庶民に対し政府がおこなう同様の行為を意味する他動詞で用いられるようになる」

「英語教育」という思想 「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成
The cultural politics of "English language education" in modern and postmodern Japan

人文・自然・人間科学研究21号
(2009年3月) - 拓殖大学 31p

福澤諭吉の「発育」論

今に残るのは福澤諭吉の「発育論」です。

学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違(たが)わざるもの幾何(いくばく)あるや。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。

文明教育論「時事新報」時事新報社、1889(明治22)年8月5日
福沢諭吉
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/50553_37053.html

しかし、福澤諭吉の「発育」という訳語は、当時の教育界に広く受け入れられませんでした。

明治政府は、教育令において「教育」という用語を採用しました。この「教育」という用語は、その後も広く使われるようになり、現在では日本語の標準的な用語となっています。

見直されつつある「発育」

近年、以下のとおり福澤諭吉の「発育」についてが再検討すべきという意見もみられます。

以前のまとめ

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