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政治リテラシーのサブテキスト リンクを作ってみました

 そもそも、有権者の政治リテラシーが足らないという調査結果がありました。
 たまたまネットで以下の論文をみつけたので、私なりのテキストリンクを作ってみました。

教職キャリア高度化センター教育実践研究紀要 第3号 2021 75 政治的リテラシーを高める政治教育のために ―高校生専門体験講座での実践から― 荻野雄
https://www.kyokyo-u.ac.jp/Cece/3-09.pdf


政治とは何か

政治とは何か

「滝村のいうように、政治とは国家にかかわる事象(動きやできごと)だというのが、いちばんシンプルな規定だろう。」

「国家がわたしたちにかかわっているように、わたしたちもまた国家にかかわっている。そのかかわりの総体を政治と呼ぶことができるだろう。政治は国家権力から発する場合もあるし、逆に社会(個人や組織)から国家権力に向かっていく場合もある。

 政治とは、わたしたちを取り囲みながら日々生起する国家現象ということができる。」

滝村国家論をめぐって(まとめ1)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2018-05-20

権力とは何か

著者は、権力とは「規範にもとづいた観念的な支配力」にほかならないと規定します。

権力とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(3)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

滝村は権力を「人間主体に対する、外部的・客観的な〈支配力〉」と規定している。

 人間社会において、こうした支配力は、当初、「原初的な神的・宗教的権力」のかたちをとって出現した。神(自然)の力と、神の力を律する者が、人びとの生活を支配したのである。

 神的・宗教的権力は、次第に強力な政治的権力へと発展していく。その背景に、人間社会の歴史的発展があったことはいうまでもないだろう。

 権力は国家だけの現象ではない。職場においても、学校においても、支配−服従関係の発生する場においては、どこでも権力が発生する。

 権力が存在するところでは、権力者の指示・命令(支配者の意志)にしたがって人が行動する。逆に、そうした関係がまったくないところでは権力は成立していない。

 支配者の意志は単なる個人の考えではない。個人の考えなら、別にしたがっても、したがわなくてもいいことになる。ところが、それが「外部的・客観的な規範」となれば、そうはいかない。自分の意志がどうであれ、おおやけに示された規範にはしたがわなければならない。規範にみずからの意志をしたがわせるところに権力関係が発生する、と滝村は述べている。

滝村国家論をめぐって(まとめ1)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2018-05-20

権力は大きく分けて、経済権力と政治権力にわかれます。企業や労働組合などの経済権力が、おもに物質的な富の生産と分配にかかわるとすれば、政治権力は思想やイデオロギーなどの観念にかかわっています。ほかに思想やイデオロギーにかかわる権力としては、宗教組織(教団)などが挙げられるでしょう。マスメディア権力にも、たぶんにそうした側面があります。

 もちろん、経済権力、政治権力、宗教権力、思想権力といっても、その分類は画然としたものではありません。たとえば宗教組織が、政治的・経済的役割をもつこともあり、経営者団体や労働組合などの経済権力が政治的性格を帯びることもあるわけです。

権力とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(3)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

ホモ・サピエンスの政治を理解するにはサル類アルファメールやチンパンジーの政治などの参照が不可欠です。またpowerをもったホモ・サピエンスの変化の把握も必要です。

国家権力とは何か

近代以降においては、支配者の意志は、国家意志となり、その規範は法律のかたちをとり、それに違反した者を、規定にもとづいて罰するようになります。そして、支配者自身もまた法律にしたがわなくてはならなくなるわけです

権力とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(3)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

国家権力をも含めた政治的権力の特質は、社会的秩序全体に関わる観念的かつ一般的な意志を必須的媒介とした権力、という点にある。そしてかかる一般的意志が、社会全体に対して有無をいわさない法的規範形態をとるか、それともたんに政党の綱領の如き形態にすぎないかが、国家権力と政治的権力一般とを峻別する標識といってよい

国家論研究の現状を排す 滝村隆一 思想の科学 1982

国家権力は秩序を形成しそれを維持していこうとする。そしてそのためには、国民の行動に干渉することが必要である。これは国家意志によって、具体的にいうならば法律とか政令とか よばれるすべての国民にとって客観的に存在すると見なされる一般的な意志によって、国民各自の個別的な意志を拘来するかたちをとる。つまり意志関係をもってするところの支配である

丸山政治学の論理的性格* -個人意志・階級意志・国家意志の区別と連関- 三浦つとむ

『三浦つとむ選集2』

レーニン批判の時代

勁草書房1983

規範とは何か

規範とは認められた取り決め、ないし約束のことを指す。認めたのだから、守らなくてはならない。たとえば、青信号は進めという交通ルール。おれは反対だからといって、このルールを守らなければ、交通事故をおこす可能性がある。

 こうした規範によって、人びとの実践と活動は社会的に規制されている。規範は社会のルールを指すといってもいいかもしれない。法律もこうした規範にあたる。もちろん、こうした規範は、社会の状況が変化するにつれて、変更されていく可能性がある。

 近代以降、支配者の意志は国家意志となり、その規範は法律のかたちをとり、それに違反した者を規定にもとづいて罰するようになる。そして、支配者自身もまた法律にしたがわなくてはならなくなるのが近代の特徴だといえる。

 そこで、滝村は、権力とは「規範にもとづいた観念的な支配力」にほかならないと規定することになる。

滝村国家論をめぐって(まとめ1)

国家とは何か

国家とは何か

「〈国家〉とは何かというと,生理的再生産(子孫を残す)という意味あいだけでなく,生活の再生産,食料とか燃料とか生活手段を生産するか,あるいは…略奪でも交換でもいいけど,とにかく生活資料(物資)を安定的に供給できるかどうかが大問題なんです。もう少しわかりやすくいうと,〈国家〉とは実体的には社会そのものなんです」

「〈国家〉というのは,(生活の再生産の単位である)社会の構成員が特定の法律に全部服従している状態をいうんです。むずかしくいうと,〈国家〉とは法的に総括された(束ねられた)社会です。…特定の法律に人々を服従させる特殊な独立的な組織が国家権力(政府)です」

滝村隆一『世紀末「時代」を読む』

民主主義国家であろうと専制国家であろうと、<統治>の現実的在り方は、国家権力中枢を占める政治家官僚が、国家意志の形成と支配において、
<統治主体>としての強度の実践的能動性主導性を発揮するものである。

https://web.archive.org/web/20201003140045/http://mimizun.com/log/2ch/philo/1056203907/

日本の官僚内閣制

国家の起源

専制国家とは何か

「これまでの歴史においては、社会組織はたいていが専制で、民主主義はごく例外だったといいます。しばしば組織間で深刻な対立と抗争があることを考えれば、緊急事態に対応するために、往々にして専制的な意志決定をせざるを得ませんでした。
 たとえば古代ギリシアのアテナイでは、都市中枢の支配層のなかで直接民主制がとられていたといわれますが、そうした民主主義は被支配層や周辺の従属共同体にとっては、専制以外のなにものでもなかった、と著者は指摘します。」

「国家組織を含め、一般に社会組織は専制形態をとります。その組織は拡大するにつれ、専門化して細かく分かれ、上級幹部層が生まれていきます。企業においては、その上級幹部層の意志をすりあわせて、意志の合意がなされ、企業としての一般的意志が形成されていくわけです。

 この調整と妥協はときにきわめて難航することがあります。そんなときにワンマンのツルの一声が、組織の意志を決定する場合もみられます。しかし、その意志決定には、成功も失敗もあって、成功するならともかく、あまりにも失敗がつづくようだと、ワンマン追放のクーデターが発生しかねない状況となります。

 現代の議会主義には、国民主権と多数支配という原則があります。にもかかわらず、実際には「少数者支配の法則」がつらぬかれている、と政治評論家はしばしば憤慨します。」

権力とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(3)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

統一的政治秩序は専制的支配者を生みだす。その下では側近層と武装部隊、情報組織が形成される。側近層がつくられるのは、同等の力をもつ実力者を排除するためでもある。

 専制的支配者は政治組織を強大化すると同時に、大衆にたいして、みずからを神格化させていく。当初は親裁によって政治が動かされるといってよいだろう。敵対的な政治組織はすべて解体されていく。

 こうした親裁体制が持続するには、支配者が配下の政治組織を掌握し、常に体制に敵対する可能性のある者を排除することが必要になってくる、と滝村はいう。さらに、支配者は、時折、政治組織の力を見せつけて、みずからの力を誇示することもだいじになってくる。

 専制体制下では、実際には権力中枢で苛烈な権力闘争がくり広げられている。みずからの権力を強固にするため、それまでの同盟者や功臣に対する粛清が開始されることもしばしばだ。

 権力闘争が、常に一族や近親のあいだでくり広げられるのは、誰が次の支配者になるかが問われるからだといえるだろう。

 しかし、専制的な支配体制が長期化すると、親裁は次第に寡頭専制体制へと移っていく。支配者は次第に形式化、名目化して、実質的な政治的意志決定権は公的な側近が握ることになる。日本でも天皇や将軍に代わって、藤原家や北条家が権力を動かしていたことはよく知られている。とはいっても、天皇や将軍は、支配者としての名目的地位を保ちつづけた。

 専制国家が瓦解の危機に見舞われるのは、ひとつに後継者の不在がある。

滝村国家論をめぐって(まとめ1) 
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2018-05-20

ヒトラーがナチス・ドイツを樹立した場合です。ヒトラーが機能不全におちいった議会制に代わる体制をと唱えて、ファシズムの専制体制を確立しました。

 革命はしばしば強力な専制権力を生みだします。イギリスのピューリタン革命はクロムウェルの独裁を生み、フランス革命はロベスピエールの独裁をもたらし、ロシア革命と中国革命はスターリンや毛沢東の暴政に行き着きました。

 戦争もまた専制をもたらします。日ごろ、安定した議会制をとっている国でも、いったん戦争がはじまり、国家総力戦となると、自由が制限され、言論が規制され、専制と経済統制が敷かれるようになります。

 最後に著者は、社会主義革命の特異性についてふれています。

 社会主義革命は、生産手段の私的・資本家的な所有体制を根本から変革することをめざしています。そのためには、社会的な生産手段を国家的所有とし、それをプロレタリアート(実際には党官僚)が管理する体制がつくりだされねばなりません。そうした課題を実現しようとすれば、社会主義体制は「過去のいかなる〈専制〉権力よりも、より強力な〈専制〉的国家権力をつくりあげる」以外に道がなくなるわけです。

革命と専制──滝村隆一『国家論大綱』を読む(6)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-06-04

革命とは何か

内乱においては、新旧の政治権力が国家の支配権をめぐって抗争し、ときに国家権力が真っ二つに分断される二重権力状態が発生する。しかし、たとえば一方が統治権、他方が行政権を掌握する、あるいは一方が議会、他方が軍隊を掌握する、あるいは一方が西、他方が東を掌握するといった事態はいつまでもつづくわけがない。

 最終的に、それは旧国家(あるいは帝国)の解体や分裂をへて、新国家の確立への道をたどる。

滝村国家論をめぐって(まとめ1) 
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2018-05-20

「一般に、革命とは専制国家の打倒を指しています。

 革命から民主政権の樹立に向かうケースはごくわずかあり、多くが失敗の道筋をたどります。

 議会制民主主義のもとで、革命が起こることはまずありませんが、ありえないわけではありません。近代において、それが成功したのは、たとえばヒトラーがナチス・ドイツを樹立した場合です。ヒトラーが機能不全におちいった議会制に代わる体制をと唱えて、ファシズムの専制体制を確立しました。」

「革命はしばしば強力な専制権力を生みだします。イギリスのピューリタン革命はクロムウェルの独裁を生み、フランス革命はロベスピエールの独裁をもたらし、ロシア革命と中国革命はスターリンや毛沢東の暴政に行き着きました。」

「著者は、社会主義革命の特異性についてふれています。 社会主義革命は、生産手段の私的・資本家的な所有体制を根本から変革することをめざしています。そのためには、社会的な生産手段を国家的所有とし、それをプロレタリアート(実際には党官僚)が管理する体制がつくりだされねばなりません。そうした課題を実現しようとすれば、社会主義体制は「過去のいかなる〈専制〉権力よりも、より強力な〈専制〉的国家権力をつくりあげる」以外に道がなくなるわけです。」

革命と専制──滝村隆一『国家論大綱』を読む(6)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-06-04


デモクラシーとは何か

Democracy:デモクラシーという政治体制は翻訳にあたり民主制、民主政、民主政治、民主主義、民本主義と多岐に訳されています。このうち「民主」は中国では君主のことを意味していました。そこでここでは以下デモクラシーと記述します。
参考
https://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/ns008_sm0025.pdf

デモクラシーとは何か

「民主主義の登場は、近代を待たねばなりませんでした。もともと専制化しがちな国家権力が大きくなるにつれて、それに一定の歯止めをかけることが求められたためです。」

「現代の議会主義には、国民主権と多数支配という原則があります。」

「民主制のもとでは、国民から選ばれた議員は、国民各層の意志や利害をまったく無視して、みずからの意志を主張できるわけではありません。専制体制とはことなり、民主体制のもとでは、国民は市民権を与えられ、中央および地方の議会に代表者を送る権利をもっているからです。」

権力とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(3)
https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

〈民主的〉政治形態、正確には〈議会制民主主義〉が構造的に進展し、定着しているところでは、〈自由なる社会〉によって日々噴出される〈特殊な事柄〉が、〈国家的〉レヴェルから、当該〈社会〉になり代わった形でスムーズにすくい上げられ、直接には政策形態をとった〈国家的諸活動〉として、全面的に展開される。というのもそこでは国民的諸階級・階層また諸産業・業種などが、それぞれの経済的・社会的なパワーのいかんにほぼ対応した形で自らの政治的代理人を国家意志の法律形態での決定機関である〈議会〉へ送り込むことができるからである。

滝村隆一『国家論大綱第1巻』

参考

政治家とは何か

〈民主的〉政治形態、正確には〈議会制民主主義〉が構造的に進展し、定着しているところでは、〈自由なる社会〉によって日々噴出される〈特殊な事柄〉が、〈国家的〉レヴェルから、当該〈社会〉になり代わった形でスムーズにすくい上げられ、直接には政策形態をとった〈国家的諸活動〉として、全面的に展開される。というのもそこでは国民的諸階級・階層また諸産業・業種などが、それぞれの経済的・社会的なパワーのいかんにほぼ対応した形で自らの政治的代理人を国家意志の法律形態での決定機関である〈議会〉へ送り込むことができるからである。

滝村隆一『国家論大綱第1巻』

〈政治家〉とは〈国家〉的レヴェルすなわち協同社会性の最大かつ最高のレヴェルにおける、〈政治的支配者〉を指しており、もう少し正確にいえば、国家意志の形成・支配過程に直接的かつ専門的に関与する特殊な社会的階層を指しているが、国家権力の中央集権的な巨大化と集中に伴なう〈官僚制〉の確立以降、とりわけ〈近代〉以降においては、法制的に(つまり行政法的に)規定された・国家意志の把持・執行・運用主体たる〈官僚〉と区別して、広く国会議員を指す場合に用いられている。これは、内閣総理大臣といえども執行・司法諸機関の構成員と同様、法制的に規定せられ(もとより〈官制〉乃至〈官僚機構〉の頂点として)、また、内外政策に関わる各種法案の直接の立案・作製者が各種官僚機構のエキスパートであるにもかかわらず、議会制民主主義とりわけ議院内閣制下では、憲法・法律・政策の如何を問わず一切の国家意志の最終かつ最高の決定権が、形式上これら議員とりわけ内閣を組織しうる国会の多数党にあることに拠っている。換言すれば、国会における多教党の実力者である総理大臣や国務大臣は、法制的に各種官僚機構の頂点に位置づけられているてんで〈国家官僚〉乃至〈国家官吏〉に他ならないが、一切の国家意志の最終的決定・最高的裁可に直接関与するてんにおいて〈政治家〉なのである。これをいま少し普遍化していえば、〈政治家〉は同時に〈官僚・官吏〉である場合もあるが、〈官僚・官吏〉であるからといって〈政治家〉であるわけではない。

 以上要するに〈政治家〉と〈官僚〉との概念的区別は、歴史的な普遍性をもつのであって、〈近代〉以降の代議制国家においては、〈政治家〉が、かつてのアレキサンダーやカエサルの如き大征服王や偉大なる軍事指導者としてではなく、何よりも〈代議士〉という形態で登場する他ないということである。

〈政治家〉論-〈官僚〉・〈政治家〉と〈政治〉の規範論的構造

滝村隆一

現代思想2 1974 2-2

日本の官僚内閣制について

国民主権とは何か

民主主義国家であろうと専制国家であろうと、統治の現実的在り方は、国家権力中枢を占める政治家官僚が、国家意志の形成と支配において、統治主体としての強度の実践的能動性主導性を発揮するものである。

個々の政策においては、国民各層の「総意」に必ずしも拘束されず、ときには「総意」に反する政策を強引に推し進めることも珍しくない。

 その意味で、統治主体としての国民というのは、幻想にすぎない。」

「議会制民主主義国家では、国民主権理念のもとに、国民は国家構成市民として市民権を付与され、国民諸層が自らの政治的権利を行使することで、政治家官僚による政治的意志決定に直接間接に関与する。

 現実をみれば、「国民主権」理念は、議会制民主主義という客観的 現実的制度として、国家・国家権力の現実的構成として、構造的に展開されているのであって、国民諸層が国家意志の形成ー支配に直接間接に関与し規制していることは紛れもない現実である。

 政治家は、「国民の総意」とかけ離れた政策を採り続ければ落選という懲罰を受けるし、直接は選挙の洗礼を受けない官僚もまた、各種マスコミを通じた国民的世論を無視することはできない。
その意味で、<少数者支配>の現実と<多数者支配>の理念は、
一つの<矛盾>として定立されているのであり、近代以降の議会制民主主義
国家は、この<矛盾>の定立とその解決を、政治的に<構造化>している
(この点が、<専制>国家との本質的相違である。)

https://web.archive.org/web/20201003140045/http://mimizun.com/log/2ch/philo/1056203907/

参考

法の支配
https://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/ns010_sm0027.pdf


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