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代表民主制の「代表」という概念は擬制:方便?
「代表」ってありうるのか
代表制そのものへの反発がこのところ強くなっている
女、市民、国民の代表だという、わけのわからない言葉が流行っています。いったい、だれが、いつ、あんたに代表なるものを頼んだというのか。法人ならいざしらず、ある個人が他の個人の代表などなれるわけもありません。個人的には、もう今では「代表」という概念はオワコンになったように思います。
「代表」とはそもそも、デモクラシーが代表民主制になった際に端を発してます。
近代のデモクラシーの祖フランス革命時に議員という国民の代表概念と代表制民主制ができたようです。これは今から言えば擬制:方便だと思います。残念ながら他に方法がなかったのでしょう。
「ヨーロッパ語でこの言葉の原型にあたるラテン語のrepraesentareは,あるものを現前させる(目の前にあらわれさせる),ということを意味する。」
「市民革命後の代表観念は,それに先行した身分制議会が,身分制的に構成された選出母体の訓令に法的に拘束されるものであったのに対し,そのような命令的委任を否認することによって,全国民の代表であるべきことを強調するものであった(国民代表)。」
代表民主制への疑問
現在は、代表民主制の「代表」なる概念に疑問が投げかけられています。
「政治家を自分たちの代表と思っていない国民民が多い」
「代表制民主主義への不信は世界的な現象」
「代表性の喪失」がひとたび確認されると重大な不都合が生じるであろう。すなわち「法律は一般意思の表明である」という一七八九年人権宣言以来のフランスの憲法伝統における法律に関する大原則が失われてしまう。法律が人民の一部の特殊利益の表明にすぎないのであれば、なぜ人民を構成する個々の市民は法律に従わなければならないのであろうか。「代表性の喪失」の問題とは、すなわち代表されていない部分が人民のなかに存在するということである。
しかも、ひとたび「経験的観察」によって人民の分裂が確認されてしまった以上、多数者による一般意思の表明という多数派デモクラシーへの回帰は、空虚であり、理論的に不可能である。
ジョームは、次のように述べている。「私の考えでは、代表の危機は、一七八九年に由来するような人民という考えの危機である。なぜなら、それは同時に市民性の危機であるからだ。委任の行為が貧困な内実に対するひとつの象徴になる傾向があるのと同様に、市民という地位は相関的なその体験を喪失するのである(36)」。つまり、「各自が自分を主権者たる人民の構成員であると感じ(同意の一形態)なければならない(37)」ということ内実とする「市民性(citoyennete´)」は、一般意思の表明たる法律のうちに自らを見いだす(代表されている)ところに相関的に存するのであるから、現代的代表概念が生み出したズレによって「代表性の喪失」が意識される場合には、市民は法律のうちに自らを見いだしえないのであり、端的に他者に統治されていると感じるのであるから、個々の市民は、自分を主権者たる人民の構成員であると自覚することを内実とする市民性を喪失するのである。トゥールノンが「支配者がある人たちを正しいとして他の人たちを非難するならば、その非難された人たちは、当然のこととして、かれらと対抗しかれらに強制をするのだから、もはや彼らを代表していない統治とかかわり合うのだと思うだろう」と述べている(38)のも同趣旨のものと思われる。また社会学者のアラン・トゥレーヌは、最近の著作において、この代表性と市民性との相関関係について以下のように述べている。「今日では、様々な兆候から考えると、民主主義と称される諸体制は、権威主義的諸体制の全く同様に衰退していると考えられる」が「このような諸国家の衰退は、その国家が民主主義的であろうがなかろうが、政治的参加の低下を引き起こすのである。そのことはまさしく政治的代表の危機と名付けられる。選挙民はもはや自分が代表されていないと感じる。そしてそのことは、ある政治的階級に対する告発によって表現される。つまりかれらは、かれら自身の権力やかれらの構成員の私腹を肥やすこと以外の目的を持っていないというのである。市民性の意識は希薄化し、ある場合には多くの個人は、自分を市民というよりも消費者であると感じ、国民であるよりも国際人だと感じるのであり、またある場合には、逆に、かれらのうちの一定の人々は、経済的、政治的、民族的あるいは文化的理由によって自らが参加していないと感じているところの社会から、自分が周辺に追いやられ、排除されていると感じるのである(39)」。
石埼 学
第二章 現代フランスにおける批判的代表制論
2 「代表性の喪失」---ジャン・トゥールノンの代表制論https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/95-3/ishizaki.htm
もともとデモクラシーは直接民主政
そもそも、ギリシャのポリス アテネのデモクラシーは直接民主制でした。
問題はいかなるデモクラシーが望ましいかではなく、デモクラシーが正当化される範囲はどこまでか、ということなのです。そもそもデモクラシーが成立したポリスの時代、住民の人口は多くて20万人程度でした。
つまり、デモクラシーは20万人の住人たちが自治をするために使われた制度なのです。また直接民主制を主張したルソーの時代もジュネーブの人口は2万4000人でした。もしアテネ市民やルソーが現代の何億人もの人口を統治する間接民主制を見たら、おそらくこれはデモクラシーの名に値しないと言うでしょう。少数の支配者が「代表」というフィクションの下に腐った運営を行っているだけで、そこにはデモクラシーの使用環境である住民自治がないからです。
よって20万人程度の地域共同体だとデモクラシーは妥当すると思います。今はテクノロジーが発達してネットを使って意見の集計とかもできるので、もう少し多くても大丈夫でしょう。よって30万人くらいなら、デモクラシーは妥当します
デモクラシーの使用環境――イアン・シャピロ「民主主義理論の現在」がすごくない http://t.co/zAiWBIOA (先ほどの参照エントリのアップデート版)
— daen0_0 (@daen0_0) May 13, 2012
もちろん直接民主制にも欠点あります。かつてのデモクラシーポリスは滅び去りましたので。
よりよい意思決定としての多数決法が求められる
より良い方法が求められますね。
関連書
著者は古典から最先端の政治理論まで駆使し、選挙と政党を基盤にした「代表制」と民主主義とはイコールではないこと、現在の社会は「代表制」が機能するための条件を完全に失ってしまったことを明らかにし、一方で、中国統治モデルの可能性と限界も検討する。
藤井 達夫