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氷点・続氷点 三浦綾子

読了。解説の一文が三浦綾子の小説の醍醐味をうまく表現していると思った。

氷点、続氷点につづく三浦綾子の文学の全ては、人間の底深い現実を解明し、では如何に生くべきかを指し示す救いの文学であり、生きる希望の文学なのである。


文学とは何か? それは人間を解明するものである、ということができよう。しかし、人間をどのように解明しようとするのか。

漱石の文学のように人間の愛の不確かさと救いのなさを解明するのか。それとも芥川文学のように人間のエゴイズムのものすごさを解明するのか。太宰文学のように人間失格の様相を巧みに解明するのか。

そのいずれの文学にも人間の救いは不在である。人間の病状の診断はあっても、ではどのように生きてゆくべきかという処方箋はない。
(解説の文章抜粋)

氷点で語られるのは、人間の罪、つまり原罪について。
犯罪のことではなく、もっと深い、人の心の別に誰にもあえて見せないそのくろぐろとした領域を三浦綾子は取り扱っているのである。
この罪を自覚した人物たちがどのように、これと向き合っていくのか、どのように解決され得るのか、、ページをめくる手はいつのまにか人間の罪への希望を、救いを求めて急いて動いた。

『氷点』はドラマチックな展開、そしてエンディングを迎えて、瞬く間に2冊を読み終わってしまった。
『続氷点』をメルカリで注文して家に届くまでの5日間は早く続きを読みたい思いで、とても長く感じた。

『続氷点』は、ストーリーの下を脈々と流れるキリストの呼びかけのような贖いを待ち侘びながら読んだ。

この小説では、明らかな信仰告白は一つも見当たらない。でも、各々ゆるしがたい人をゆるした人たちが、スポットライトが当たるように照らされ、周囲の人間に影響を与えているのが分かる。

三浦綾子は小説を通して呼びかける。誰でも抗いえない罪のある者、それを自覚し、そこから救いを求めている者はキリストの元に来てみてごらん。
彼女自身、キリストに救われ、一生を精一杯生きた証である。

「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」

繰り返し主人公の心に響く言葉は、不思議なことに15歳のわたしの心にも大きく響いた言葉であった。


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