振り下ろせるうちに振り下ろせばそっちから寄ってくる。
素振りをしていた。自宅の庭で素振りをしていた。自宅の庭を説明するとなると、その大きさを説明するのに五十五万文字では足らなくなってしまうので、ささやかな想像を読者にプレゼントすることにする。私としては、メルヘンなお庭がタイプだ。
私がする素振りとは、剣道の素振りになる。幼い頃から剣道をしていた私は、今でこそ道場や稽古場所に行かないが、当時は「伊勢原のイケ面」と呼ばれていた。ここでいう「イケ面」は、イケてる方のイケメンと変換してもらっても私としては一向にかまわない。
素振りをするというメリットを語るならば、筋肉が緊張し、没頭すると思考することがなくなり頭がスッキリするということになる。それと同時にどこかに忘れて来てしまった、あの日の悶々を取り戻すことにあると私は思慮している。
私くらいの素ブラーになると、素振りをしていて狙った場所に竹刀の切っ先をピタッと止めることが出来る。何本振り下ろしてもきちんと止まる。これでもかと悪代官を目の前に想像してみて、おもいっきり振り下ろしてみてもピタッと悪代官の頭上で寸止めで止めてしまう。私は振り下ろさないが悪代官はいつも私の素振りに震えている。
これは私が凄いのではなく、何万回と経験していくうちに素振りをカラダが記憶していて、どこに竹刀の切っ先が振り下ろされてくるのかを鮮明にイメージ出来るからである。素振りは反復すると竹刀の切っ先まで血が通うイメージになり自分のカラダの一部になる。
私が素振りをして振り下ろしていると決まって思い出す剣道部の先輩がいる。いや、私が必ず思い出したくなってしまう先輩なのかもしれない。今では名前も思い出せないのに、その声と後ろ姿だけをハッキリと鮮明に覚えている。
とてもキレイな先輩だった。正確にはこれから恋をして、もっとキレイになるのであろう要素を兼ね備えた先輩だ。中学一年生の私から見る中学三年生の部活引退前の先輩は、大人の女性の入り口に立っているような、明らかに自分とは違う種類の人間に見えていた。女性として女の子を意識したのは、この時からかも知れない。思春期の入り口に自分も立っていたのだと思う。先輩という言葉の響きすら甘美に感じていた。
この日の部活中、先輩は新入部員である一年生の私達の担当だった。先輩は、体育館横の外階段に座りながら頬杖をついて、外で素振りをする健気な私達の素振りをずっと上目遣いで見ていてくれた。
もしかしたら、これが女性の上目遣いを好きだと思った最初の瞬間かも知れない。この先輩以前の女性の上目遣いを私の記憶の中では他に思い出せそうもない。それくらいの上目遣いだった。そしてさらに情報を付け加えるならば、私が女性の伏し目がちを好きになるのは、ここからもう少し大人になってからのことだ。
そんな先輩は、頬杖をやめてゆっくりと階段を降りてきて、一人ずつ見渡しながら順番に声をかけてくれていた。私のところにも指導しにくると先輩は急に立ち止まり、世の中で一番大切で大事なことを、突然私に小声でそっと教えてくれたのだった。
「知ってるかな。耳たぶから真っ直ぐに指をおろしたところに乳首があるのよ」
これを急に私の横に立ち、その耳元で囁いたのだ。この言葉以外に先輩と言葉を交わした記憶は他に思い出せない。当時の私は一瞬何を言われたのか理解が出来ずに、頭の中の思考が止まってしまった。思い出す景色すらも静止画のままだ。それくらい胸が高鳴った。今なら刹那に「確認させてください」と言えるのに何も答えることが出来なかった。それでも、何も出来なかった自分を少しだけ誇っている。
なぜこんなことを囁かれたのかは今でも分からないのだが、それだけ言ってサッと居なくなってしまった先輩の後ろ姿とその言葉の持つ意味は、今でも私の人生の中で君臨する言葉の一つとして燦然と輝いている。
そして何よりも、当時の私は間違いなく四六時中乳首を探していた青春真っ只中だったので、とんでもない情報を耳にしてしまったことに対して興奮して震えていた。曰く、武者震いというものを知った。
実際、家に帰り自分で何度も試してみた。何度もだ。耳たぶを人差し指で触り、直線的にゆっくり下ろしていくと微妙にズレているように感じるのだが、なぜか乳首に近付くにつれゾワゾワしてきて、最終的に人差し指は間違いなく乳首を差してその役目を全うしながら正確に当てる。当たってしまうのだ。鏡で自分を見てみても、耳たぶからは実際ズレているように感じるのだが、最終的にはどういう道を辿っても人差し指は必ず正確に当てる。当たってしまうのだ。不思議に思って人差し指を首や腕を経由しながら辿っても最終的に何度も自然に乳首に当たってしまうのだった。
これは、何かの魔法かと思った。
まるで、乳首に吸い寄せられるように人差し指は確実に当たるのだ。当たってしまうのだった。これは私だけの問題なのか当然知りたくなった。ここまでくると、もしかしたら乳首の方にも当たりたいという意識があるのかも知れないと思っていた。この大発見に私の無い胸は揺れに揺れた。次の日学校に行き、友人に昨夜の乳首の成り行きを告げた。
「いいか。耳たぶから真っ直ぐに人差し指をおろすと乳首に当たるんだ。いや、乳首がそこに存在するんだ」
私はこれだけを端的に告げて、ジッと友人の目を見た。これは大実験だった。失敗も覚悟したので、一度先に友人の乳首の所在地を確認させてもらっていた。やはり友人の乳首も私と同じくその見た目からでは、耳たぶから真っ直ぐおろした場所に乳首は存在していない気がしていた。
「今からおろすぞ」
と、私はゆっくり声をかけ、友人の左耳から左胸に向かって、右手の人差し指を真っ直ぐに振り下ろしていった。友人は人差し指が徐々に下に向かっていくにつれ、私と同じくゾワゾワしているみたいだった。
私は、過去にこれだけ緊張して人差し指を振り下ろした記憶が他にはない。私が初めて女性に対して人差し指を一生懸命に振り下ろした時は「記憶より記録せよ」と脳内の全神経がゾーンに入っていたので、この時の緊張とは少しだけ種類が違う気がしている。
最終的に人差し指は友人の乳首に難なく到達した。何も違和感なく完璧に到達し「スムーズ」という言葉の意味を発見した記念日みたいだった。
真っ直ぐに振り下ろしたところに乳首は存在しないはずなのに、友人の乳首の方からやはり私の人差し指に寄ってきたとしか思えなかった。
なんだこの魔法はと感じていた。とんでもないことを知ってしまったと、また震えに震えた。武者震いの中でも本物の武者みたいなくらいに震えた。
言葉を掛けて真っ直ぐに振り下ろすと乳首の方から寄ってくる。これなら催眠術でやっていけると思った。この先これで一生私は乳首に困らないし、こんなに楽しい生活は、これ以上ないはずだと嬉しくなった。
この魔法は、学校で一瞬にして爆発的にヒットした。思春期の私達にとってこれは本物の魔法だった。この日学校では、一体いくつの乳首が発見されて喜ばれたのか分からない。
もしかしたら、本当に女子を相手に試した奴だっているかも知れなかった。そこだけは悔しくて、寝れなくなるから考えないようにした。
私は、この日女子に嫌われた。だが女子だって「本当は見つけて欲しいはずだ」とすぐに脳内変換をした。変換をすることで、嫌いだと言いながらも女子も笑っている気がしていた。そしてどれだけ嫌われようが、私には発見出来るという自信があり、それこそを誇るべきことだから良いのだと変換することに成功していた。
本物とは、最初は嫌われる運命なのだ。
だからそのうち女子に試すことを目標に定めた。そればっかりを考えて毎日毎日真剣に素振りをしていたら、同じところでピタッと止められるようになったのだ。私はしっかりと狙えるところに振り下ろせるようになったのである。
素振りをしながら、今日も私はこのことに対して想いを馳せている。
なんのはなしですか
こんな私でも喋ります。乳首のはなしはたぶんしません。