私にも語らせて欲しい。BLUE GIANT のこと。
私は、小説に自己の内面を求めて、マンガに理想と解放、感情の揺さぶりを求めているのかも知れない。
読むという行為が好きだ。生粋の怠け者で怠惰な暮らしをしている私は、一歩も動かずにその世界の何処でも飛ばしてくれる読書が好きなのだ。
BLUE GIANT ずっと好きなJazz 漫画だ。
もう、何年も追いかけている。主人公はその年月の全てをかけてサックスを吹き続けてその音を届けてくれている。
映画になった物語は、小説にてさらに補完された。
毎日、noteでも映画の感想やBLUE GIANT 関連の記事が私のタイムラインに出てくる。そのほとんどを読み、勝手に届けとスキを送り続けている毎日だ。
漫画、映画、小説。その全てを感じ、全身で受け止め読み続けてコレクションしている。そして、ほぼすべてのプレゼントに応募しているのに一回も当たった事がない。
なぜだ。なぜなんだ。
物語は、主人公がずっと音を探し続けて奏でている。私はどこまで諦めないでこの先も、何かしらの繋がりを求め続けていけるのだろうか。
サイン入り複製原画、映画試写会、Twitterリツイート企画、そして小説の感想ツイート。
映画化するにあたり、官製ハガキにて応募のプレゼントには、しっかりとマスキングテープで枠を彩り、目立つ蛍光ペンで重視して欲しい内容をびっしりと書きまくり、近所の神社へ当選しますようにと願ったりもした。
それでも、私の音は届かない。
主人公が吹き続ける限り、私も声をあげて届け続けようと、もう10年近くなる。
これが私のJazz か。
最早そういう、付き合いなのだ。
私は、主人公が育った仙台へ行きたいのだ。でも、それにはどうしても何かで当たったりした特別なものを持参したいのだ。
「実は、これ当たったんです」
聖地巡礼している方達に見せて、話しのきっかけを欲しいのだ。そして、どうぞ好きなだけ写真撮影してくださいと、あのWBCのホームランボールで話題の女の子みたいにしてみたいのだ。
私は、作品が人気になっていくのをずっと追いかけてきた。
私は、会社の同僚にそれこそ無理矢理読ませるおじさんになったりもした。
少なからず、音楽奏でている人には必ず、
「私は、楽器や演奏出来ないのですが、音が聴こえる大好きな作品があるのです」
と、話題に出して宣伝してきた。
どんどん大きくなっていく作品に対しての嬉しさと、置いてきぼりにされている悲しさを同時に味わっている。
青春漫画のヒロインみたいな気持ちなのだ。
これが、これが私のJazz か。
この物語は、最初から通して一つのメッセージを漫画、映画、小説で伝えている。
もちろん、私はJazz を知らないし、詳しくもない。だけど、イメージしていた喫茶店で流れるような優雅なJazz はそのほんの一部だと知れた。
どうして、この漫画が心を揺さぶるのか。
それは、Jazzは、生き方そのものが音に出させる音楽だと伝えてくれるから。
生きている上で毎日色々な事が起こる。その辛さや、楽しさ、苦しさ、ステージで優雅に奏で時間を共有してくれた人間に音で伝えて表現出来るからだ。
それを、あえて音が聴こえない、漫画にして伝えるというひねくれ具合が堪らないのだ。
私が映画を見た感想は、もうありがとうしかない。感じて欲しい感情や説明を音楽で納得させてくれたからだ。
自分をさらけ出す。貫くというのは、怖いけど必要な事だと教えてくれる。
普段、思っていても言う機会も伝える機会もない日常に、ダイレクトに伝えてくれる時間がたまに欲しくなる。それが、私にとってこの作品が恥ずかしくもなく入り込めるものだということ。
漫画、映画、小説が見事に補完し合い、それぞれのソロを聴かせてくれている。漫画が音を伝え、映画で音を体感させてくれ、小説で生きる泥臭さの音を教えてくれる。
私は、読書にJazz を聴くようになった。読書の世界により深く入れるようになった。誰かの人生を聴くような感覚に陥りながら、誰かの物語を読む時間がなんとも言えないのだ。
だが、作家と違って誰の演奏だとか全然頭に入って来ない。その辺の知識は全くないのだが、おそらくJazz はそんなことは、気にしないで門戸開放してくれている。
つまり、私はこの記事で私の想いをソロとしてJazzで載っけたのである。が、ひどく傲慢であり謙虚さの欠片もない。それは、響かない。
それは、人としてダメって書いてあった。
届け。私に。誰か教えてくれ。体感させてくれ。
どうやったらプレゼントが当たるのかを。
↑こういうところね。
さらけ出す。人間として一番難しい。守るものがあったりするから、小さいプライドとかね。だけど、さらけ出す。
それに挑戦するのがJazzという音楽だと、私はこの漫画から教えられている。
いつか、この作品に携わっている方にきちんと御礼を伝えたい。嘘をつけない作品を創作してくれてありがとうございますと。
私も、表現にそうでありたい。