高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」の疾走に思いっきり声を掛けた。
読書を巡る旅の途中に、出会うべく出会うような、出会いの本があったりする。それは僕がそう思って生きているのだからそうなのだ。
自分の人生に彩りをつけるのは自分でありたい。noteにおいてそういう出会い方は初めてで、即読んだ。
noteは、どうやって僕の好みの記事を見つけてくれているのか。この記事にすぐに惹き込まれた。本当にありがたい。
それは、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」について海亀湾館長さんが書いている記事だった。この記事のどこに僕が惹かれて何に対して問い掛けをし、読書しなければならないか探りたくなった。
もし読みたい人がいるなら、海亀湾館長さんの記事を読んでからをお勧めしたい。
僕が読んだ、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」は久しぶりの衝撃だった。純文学にこの作品が在ることは素敵な事だ。
本当にそう思った。
僕は、この小説は「詩」だと思う。「小説」だけど「詩」だと思う。
本当にそうか?
疾走してるよ。本当に。
何をどう理解するかではなく、何を感じるか。感じない事も正解で、でも何かが残る。
愛が疾走してるのか。
当時も新しい感覚だと思われたと思うが、これは永遠に新しい筈だ。
疾走を手助けするように刺さる言葉が、音楽に乗ってるように入ってくる。
名前の概念をぶっ飛ばした時にそこに本来在るものは、何なんだろうかってすごいスピードで物語ってくる。
名前がなければ人間でなくとも良いのかと突き付けてくる。
名前なんて何でもいい。
本当にそうか?
すごい角度で歌ってる小説と感じる。
刺さる。何が刺さるか全然わからない。
あっという間に読み終わる。
続きを考える暇さえ与えないから。
「小説」だけど「詩」で「詩」だけど「小説」で良いんでなかろうか。
僕は、この本を技術的に評論出来たり内面的に追求したりすることが出来ないし、なぜだかあまりしたくない。
このままでこのまま感じれば一番楽しいのでなかろうか。
「わけのわからないもの」
それを読書好きで、本読んでる人に言わせるなんて最高だ。
なんのはなしですか
推敲なしの勢いで書いた物を残しておきたい。
そんなこと誰にとってもどうでもいい事だ。
たまらない出会いありがとうございました。
読書が楽しくて仕方ない。と思える幸せよ。