本との本当の出会いを考える僕に、イケてる風が吹くのは止めようもない事実
本との出会いを考える時がある。
読書好きな方は、一度でも考えた事があるだろう。今どうしてこの本を読んでいるのだろうとか、この本に呼ばれている気がするとかだ。
私の人生に圧倒的に足りなかったもの。
本をプレゼントされるということ。
私の周囲には、読書の話や本についての話をする機会など全く無かった。今でも無い。
大抵の仲間内の会話でも、
「本好きなんだな。Instagram見たよ。知らなかったよ」
「ああ。そうそう。」
ここに壁が存在する。
何か読むの?この質問さえするなよという暗黙の了解がそこには存在する。
私も、それを壊してまで話をする必要性を感じない。私の推察通りに会話は、本の話などなかったかの様に進んでいく。
本を読むという行為が、ある一部の人のみのコミュニティだと気付いたのは、10代からだ。
私は、漫画も大好きで漫画家の先生を本当に尊敬している。
漫画の話は友人とするが、小説の話はほとんどしない事にうっすら気付いていた。
現代文の教科書に載る小説を読むのが好きだった。そこから派生し、その作家の他の作品を読んだりして拡がっていった。だけどそこは、指南や、読み解き方を教えてくれるような環境ではなかった。そして、自分から学ぶという勇気も持てないそこまでの覚悟もない中途半端な日々だった。
ただ本が好きという事のみで、本当に我流で読むだけという暮らしでそのまま20年位過ぎる。
遠回りしがちな人生だと、自分でも思う。
一つの結論に達するまでが、人より倍以上周りくどいやり方をして生きて来た気がする。
二択を間違える。あの時選ばなかった方が正しかったのではと、事あるごとによく思う。
それを自分で認めるのに時間を費やし、挫折を繰り返してきたのだろうと思う。ようやく甘受出来た頃に、本の友人が出来た。
以前、三島由紀夫の「夏子の冒険」と一緒にプレゼントされた本がある。
その本を、私にプレゼントしてくれた時に貰った言葉はただ一言だった。
「面白いと思うから」
この一言は、突き刺さった。
それを人に真正面から言えずに過ごして来た私にとって、言われてみたかった言葉そのものだからだ。
私の読書遍歴を見て、その上で全く読みもしないジャンルだった。私は、来るべきタイミングで読もうと思っていた。
プレゼントされてから、約3ヶ月。自分の中で色々な事から区切りをつけ、前へ進むタイミングで読了した。
この本は、洋書でミステリーに区分される。
「忘れられた本の墓場」で父親から一冊だけ本を選んでこの世から消えないように守れ。一生の約束だと言われる。
物語は、一冊の本を巡る内容。自分自身、その本の作者の人生とどんどん入れ替わり立ち替わりしていく。
最近は純文学、私小説に傾倒していた私にとって、それは想像力を刺激するには堪らない時間をくれた。娯楽が寄り添ってくれた。
それは本を読みながら、登場人物に自分を重ねたり、思い描く人相にしてみたり、知らない街、時代、歴史を自分の頭で描き結論を予想したりする読書の楽しみに溢れた。
本を巡る冒険の小説が、実際には読みながら自分の本との冒険の意味を久しぶりに教えてくれた。
読書が持つ意味を考えた。
この本が私に渡って来た理由を考える。
そんな贅沢な時間は他にあるだろうか。
偶然の中に必然を感じる生き方は、きっと悪くない。
どうやったってそれはプラスに変換する作業だからだ。
「面白かった」
自信を持ってその言葉を返そう。
本との出会いを考える。
これを読んでしまい、真面目が溢れて素敵な文学中年だとつい思ってしまう、うっかり系文学女子と出会いたい。
なんのはなしですか
連載コラム「木ノ子のこの子」vol.12
著コニシ 木ノ子(出会い系読書家)