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心はどこにある?

小学生のとき学校の授業で地域のお寺に取材をしたことがあるのをふと思い出した。低学年か中学年かそこらの頃だ。

5~6人くらいの班に別れてお坊さんにインタビューをして、後日その内容を新聞記事にする。そんなような授業だった気がする。

私は周りがお寺の歴史や仏像について質問する中、御堂の中にあった象の置物は何に使うのか?とか好きな食べ物は?とか少しズレた質問をしてお坊さんを困らせていたような気がする。周りと同じような質問しても面白くないじゃないか。そんなことを思っていたかもしれない。

こちらからのインタビューが終わった後、今度はお坊さんが私たちに質問をした。

「心はどこにあると思いますか?」

その時、私はなんとなく右胸を指した。しかし、他のみんなは左胸を指した。
1人だけ違ったものだからキョトンとしていたら、ある子が「心臓は左胸にあるんだから心も左胸にあるはずだよ」って教えてくれた。
私は当時からぼんやりとしていたので、心臓が左胸にあることを知らなかった。すごいな〜そうなんだ〜って思う反面、私はとても不思議だった。

「でも、心臓が左胸にあるなら、心は右胸にあるべきなんじゃないの?片方だけ何も無いのは不平等じゃない?可哀想」

この疑問がずっとつっかえたまま大きくなった。あのとき、もう少し踏み込んでこの疑問をみんなやお坊さんに言えばこんなに引きずらなくて良かったのかもしれない。
私たちにこの質問を投げかけたお坊さんはあの後なんて言っていたのだろう。詳しく覚えていないのが悔やまれる。

今も、私は心がどこにあるかと問われたら返答に困ってしまう。

仮に左胸にあったとしよう。すると左胸には心臓と心があることになる。左胸が抱えているもの重すぎない?でも、心臓=心という捉え方もあるから存外にアンバランスとは言いきれないのかもしれない……
だとしても、均衡とれてないと思うんだよな〜。だけど、人という字は支え合って成り立っている。みたいなことをよく耳にするから、左胸に心臓と心を抱える不安定な存在が、周りと手をとりあうことで人になって補い合って生きるためにそうなっているのかもしれない。

右胸にあったとしよう。左胸には心臓、右胸には心。天秤に載せたら両方釣り合って平等な状態だと思う。
でも、心が痛いとか胸がときめく。など感情が高まったとき、私は多分心臓の痛み、左胸を押さえるのだろう。だとしたら右胸に置いた心は形だけで中身は心臓と一体なのか?それもなにか腑に落ちない。あれ、私は最初心は右胸にあると思っていたのになんかこれはしっくりこなくなったぞ?

心とはなんなのか?
専門的知識があればこの話ももっとすんなり帰着することができるのだろう。でも、これは私の中の会議なので仕方なし。

目に見えなくても心はある。でも、目に見えないから不安になる。だから私たちは形ある心臓に心を預けて同じものだと思うのかもしれない。それは間違っていることだと思わない。

今の結論としては少し卑怯なかたちになるかもしれないけれど、心がどこにあるかはその人によるのだと思う。その人が信じた場所が心の場所で、固定されたものではないと私は思う。

心はどこにあるか?この問いはこれからも私の中のどこかにある心の中に残り続けるのだろう。



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