書けば話せる
かの文豪・筒井康隆先生が、かつてエッセイで「とっさに言葉が出てこない」ということを嘆いていらっしゃった。
……というような内容だった。(手元にないので、わからないがたぶん「地獄の沙汰も金次第」の中の一節だったと思う)
多作な作家であり、言葉を扱うプロなのに「とっさに言葉が出てこない」なんてことがあるのかと驚いた記憶がある。
けれど、注意して見ていると、物書きの人たちには、「しゃべれないから書いている」と主張する人が多いように思う。
わが師も、かつては「人前で話すのは苦手」とおっしゃっていたし(今は「そう思わないようにする」と、どこかで宣言されていた)、作家さんの「話せるなら書いてないよ」というセリフも、何度も見た気がする。
けれど、私は思うのだ。
「話せるなら書いてないよ」
とおっしゃる方々は、総じて、お話も上手いじゃないか。
この裏切られた感といったら、もう。
「話せないなら、書くしかない」
とライターを志した私にとって、諸先輩の皆さんの「しゃべれない」レベルは、はるか高みに設定されているようで、
「皆さんの『しゃべれない』は、私にとっての『しゃべれる』を、ゆうゆう超えた神トークレベルですよね。それのどこが『しゃべれない』って言ってるんですかっ?」
と、いつも納得いかない。
私の場合、話したいこと、聞きたいことは、まったく関係ない話と一緒に、一度に大量に頭に浮かぶか、何も浮かばないかのどちらかだ。
ちょうどよく話の接ぎ穂が出てくることは、まずない。
前者の場合、どれを話せばいいのかと、うろうろ話のしっぽを追いかけているうちに、結局、捕まえ損ねた話たちが、ささーっと逃げていき、最後はしどろもどろ。
後者の場合は、何も浮かんでいないのだから、余計にひどい。
義務感で適当な話題をその辺から拾ってきて、
「え? 待って。今から私、このことを話すの? 何の知見もないのに?」
と混乱しているうちに、訳が分からなくなり自分で強制終了。
そしてますます、話すことに対して苦手意識が増す。
しかし、こんな私が、つい最近
「お話がお上手ですね」
と褒められた。
それは、敦賀市の杉津で土石流災害が発生した数日後に、嶺南ケーブルネットワークという、地域のケーブルテレビ局が取材に来てくれた時のことだ。
それまで、何度も杉津について、考えをまとめて書いてきたためか、比較的、とっちらからずに話ができたのである。
インタビュアーさんは、マイクとカメラを私に向けながら、
「杉津の惨状をごらんになった時、どう思いましたか?」
「今後、杉津にはどうなってほしいですか?」
などと質問を繰り出してくる。
私は、(これはあそこに書いた)(ここから引っ張れば、伝わるかも)と自分のnoteにつけたインデックスから、話す内容を手みじかにまとめ、しゃべる。
結果、べた褒めされた。
社交辞令だったのかもしれないけれど、「うわ、使えないなあ」という顔はされなかったので、一定の撮れ高は満たしたのだと思う。
なるほど、書いたことは、話せるものらしい。
「結婚式のスピーチ原稿」のような、一言一句変わらない話を用意するという意味ではない。
noteを書くように、自分で話の順番を考え、伝わりやすい言葉をえらび、アウトプットした経験があれば、そのことについては、とっさに訊かれてもしゃべれるのだ。
ということは、「話せるなら書いてないよ」とおっしゃった諸先輩方も、話す場を与えられたときには、おそらく、棚卸のように自分の脳内に納まっている関連事項を取り出して、話すテーマに沿ったネタを、整理整頓しながら書いて見返していらっしゃるのだろう。
森羅万象何でもよく知っていて、よどみなく話せる人に憧れるが、自分がそうなろうと思うと、そこにかける果てしない努力に気が遠くなる。
何しろ、インプットと同じだけのアウトプットもこなさなくてはならないのだ。
生きている間に、終わる気がしない。
せめて、自分が「伝えたい」と思うことくらいは、きちんとアウトプットして、人並みに話せるようになっておきたいと思った出来事だった。
**連続投稿200日目**
追記)杉津の土石流災害についてのニュースは、RCNの「つるいち!」という番組内で流れるそうです。
8月19日から一週間程度、「つるいち!」のサイト内にも動画がアップされるそうですので、もし見てくださった方は、福井県の災害支援ふるさと納税にもご協力いただけると助かります。
★つるいち!サイト
★福井県災害支援ふるさと納税ページ
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