恋愛を考える 文学部は考えるⅠ

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慶應義塾大学文学部が主催する、一般市民向けの公開講座をテープ起こしとしてまとめた1冊。
文学部の中での、様々な分野を専門とする講師が自分の専門分野から「恋愛」について話している。


自分も通ってきたから、という理由でもっともおもしろく読めた主題が第三章における「永遠をめぐる物語」
講師は英米文学が専門の方なのだけれど、少女マンガについて論じる。
というより、本人が「自分はなぜこの二つが好きなのか。偶然ではない何かしら共通点があるのではないか」と考えたところから、話が膨らんでいく。

少女マンガのルーツをたどっていくと、英文学に影響を受けた作品が散見できる。
少女小説家の筆頭、吉屋信子は「若草物語」に強い影響を受けている、というのである。少女小説からさらに少女マンガ、と血脈が受け継がれていく。

ここで影響を与えた「若草物語」はというと、恋愛小説というより「家庭小説」と呼ばれるジャンルと文中にある。
まだ読んでいないので私は「若草物語」を語れないのだけれど、四姉妹のストーリーであることは知っている。女の子姉妹が四人そろって恋愛沙汰に話が至らないわけはないだろうから、恋愛もストーリー中に入っては来るのだろう。
それでも、この小説は文中では「家庭小説」というジャンル分けにされている。

なぜかというと「家庭小説」というのは、家父長制に抗う新時代の女性の生き方の提示、新たなロールモデルとなる人物を描いているから。

つまり少女マンガとは、読む側が「こうなりたい!」「こうして生きてみたい!」という羨望の眼差しを向けるための女性像(少女像)が描かれているものらしい。

日本の女の子というのは(おこがましい話だが私も含めさせてもらうけれども)、自己肯定感が異様なまでに低い。
個人的には血のつながった男親から「ブス」だの「ブスは死ね」だの言われて育ってきたので、よく分かる。お前の子どもがまさか演繹法が分からないとでもお思いか? なんてクソみたいなことは聞かない。そいつに演繹法なんて難しい言葉は分からない、ということが分かっているので。

話はズレたが、とにかくこと日本においては女性の自己肯定感は低い。最近は自ら高めていく方法の書籍が、新手の自己啓発書の皮をかぶって女性向けとして山ほど書店で山積みされている。試しに私も何冊か手に取ったが、女性受けする占いとスピリチュアルを混同したもの(占い好きとしては論外)や、「アナタはアナタ、それだけで尊いの♡」なんて書かれていて、そんなこと思えねーから困ってるのに何を言っているの? は? という文章が、書く人が異なるだけで似た内容として販売されている。フリマアプリで買ってよかった。売れろ。

ところで簡単に自己肯定感を高める方法がある。
ひとつだけある。

他人に肯定してもらえばいい。

それが難しいから自己啓発書に頼るんだよバーカという声も聞こえてきそうだが、実際これは効く。かなり効く。
小説の新人賞に落選続きで自己肯定感よりも希死念慮ばかり高まっていた私だが、昨年あるゲームの二次創作小説をアップしてからだ。めちゃくちゃ褒められた。感想が毎日のように届いたし、今でも週一くらいで届く。一生忘れないとか、おもしろかったとか書かれて、さらには先生なんて呼ばれて、ちょっと泣いた。それくらいうれしかった。

ここだ。
他人から自己肯定感を高めてもらう。
少女マンガではこれがキモになる。
典型的だが、少女マンガの主人公はだいたい「私ってドジでお勉強ができなくて、目も小さくてかわいくない……でもAくんのことが好きなの」みたいなイメージがわくだろう。古すぎか?
とにかく、こんな感じの主人公は、自分よりも美人でお勉強もスポーツもできるお嬢様なライバルに心が砕け散ることがありつつも、なんやかんやで最終的にはAくんと結ばれる。
そして典型的な言葉をかけられる。
「そのままの君が好きだよ」
仮にそのままの君が好きなら、男なら確実にそんな自己肯定感の低い女よりも美人で自信にあふれた勉強スポーツ得意なお嬢様を選ぶに決まっている。と私ならうがった見方をしてしまうが、そういう少女マンガはたぶん売れないので、主人公とイケメンが結ばれておしまい。

そして主人公は自分を受け入れてもらえたことによって、自分に自信を持つようになり、自己肯定感を高める。
自己肯定感を高めることにより、現実と向き合う覚悟もつくのである。
たとえば勉強ができないと嘆くだけでなく、しっかり共感と向き合うようになるとか、少しでもかわいくなるためにメイクやファッションの勉強をするだとか。これらを土台にして、さらに自己肯定感を高める。やがては他人からの肯定がなくても自信を持てるようになり、自律した人間になれる。

少女マンガは自己啓発書だった……?

この章の少女マンガについては、さらにもう一歩踏み込む。
いわゆる
「お姫様と王子様は結ばれて、末永くしあわせに暮らしましたとさ。おしまい」
とはいかねーのが現実だよ! あるだろ、絶対に続きが! 嫁姑の争いとか! 靴下を裏返して脱ぐなとか! 夕食当番メンドイから変わっての一言に始まる大喧嘩とか!
家族計画における、子どもを授かる時期とか!

自己啓発書のうさんくさい部分は、個々の悩みに寄り添っているように見せかけて大局的な面にしか目を向けず、結局個人の問題は個人に丸投げしているところだ。
その点、自己啓発書少女マンガは、優しい。
なぜなら、そういった個々の例には寄り添わないから。

しあわせな家庭はどこも似たようなものだが、不幸な家庭にはそれぞれの味がある。とかなんとか誰が言ったかも知らないし正しいかどうかも知らないのだけれど、これが真理だ。
対応できるわけがないんだ。自己啓発なんかで、個人の悩みは解消しない。

だから、少女マンガは続きがない。

ハッピーエンド♡ ~終~

で、終わらせるしかない。
その後、交際に発展したあとの恋人同士のありようなんてロールモデル化できないから。
もちろん主人公とヒーローなりの生き方付き合い方はあるだろうけれど、読者が自身を投影できるロールモデルにはなりえない。
個々の例に寄り添わないから。寄り添えないから。
連絡の頻度で折り合わない恋人もいれば、異性関係を友人時代と変えないことにイラつくとか、悩みは様々過ぎてとても描ききれない。

本書の文中にも続篇はなぜかつまらないとあるが、こういった点もあるのではないかと考える。

さらに最近では声を大きく訴えているが、性教育の問題もある。
性的コンテンツを含んだ少女マンガは店頭販売しません、みたいなディストピアがどこぞの都道府県市区町村にあるとかないとか聞いたが、性教育の機会を奪っておきながら学生の妊娠出産を本人のせいにばかりするオトナの方々の方便はだいぶ昔から聞き飽きているのだけれど、それでも学校に性教育をするなという保護者がいまだにいると聞いて私はいつの時代を生きているのだろう? SF小説かな? と思わなくもない。

少女マンガを読む世代を、たとえば「りぼん」や「ちゃお」「なかよし」に絞ったとしても、小学生とくくったところで1年生と6年生では年の差が著しく開く。6年生の少女たちならば性的コンテンツには興味津々だとしても、1年生の少女に教えるにはまだはやいと考える親世代はとても多いだろう。海外だとそれくらいの年齢から徐々に性教育をスタートするというのだから、やれ日本はどこまで腰を沈めたままでいるつもりなのか計り知れない。

そういった対象年齢が絞れないために性的コンテンツを含めない、含めたくても「小さい子にはわからないかな」という作者の気づかいから、少女マンガはその後が描かれないのではないか。
年齢や恋人にもよるのは重々承知としても、交際関係に性的事柄が付随するのはある種の必然に等しい。
だから描かれないし、描けないのではないかと。

世間的には話題になったらしい「君に届け」という作品は、めずらしく両想いになったその後もまだ続いている作品としてあげられている。
そこには清い交際をしよう、ということでその後をウヤムヤにしつつも未来を描くあり方があった。

本章での話としては前後してしまうのだが、ハッピーエンドで終わらせる理由を文中ではこうある。

自分を肯定してくれる相手との永遠性を暗示する……
前に書いたが、付き合って一生しあわせになれるかというと、そうでもない。
必ずケンカするし、嫌いなところが目につくようになるし、もしかすると相手の気持ちが離れていく可能性もある。
自分の自己肯定感を高めてくれる人物を失ってしまったら、その瞬間に少女マンガの主人公はもう恋愛的にはしあわせではなくなる。

永遠に愛される保証がなければならない。と本章にはある。

だからあえて有頂天となった両想いの瞬間に、少女マンガは終わる。
有頂天となった瞬間の恋人たちは、お互いになんの根拠もなく永遠にお互いがお互いを愛して愛される保証があると信じているから。
だから、ここで終わる。
ここまでなら、永遠が保証されるからだ。本人たちのあいだでは、無意識に。

ところがそうでもないんだよな~ということを、知りたくなくても知るのが大人の階段を登るということなのだろうな。

さらにひねくれた物の見方をするようになると、フィクションにおける猟奇殺人者の動機まがいの発想が出るようになる。

「なぜ愛する彼を殺したのかって? ずっと一緒にいるためよ」

社会に適応した一般的大衆市民には理解しがたい理屈として描かれがちなワンフレーズだが、これも意外と少女マンガ的な乙女チック発想となんら変わりない。
ようは、これこそ永遠の保証なわけだ。
有頂天でのハッピーエンド ~終~ を現実世界で再現する手法としては、殺人を侵す気持ちこそ理解しがたくとも、何かしら汲める部分があるのではないかと思う。たとえどんなに一般に溶け込んだ普通を称する人であろうと。

変わってもらいたくないと願う人ほど変わる経験をして、つらい思いを味わった人は少なくないはずだ。
恋も同じだろう。
木綿のハンカチーフなんて曲は、都会に染まってしまった彼を悲しく思う恋人の心を歌っているが、変わってほしくないと恋人が願ったところでなんの効果もない。変わらなかった自分が最後にできることは、別れを告げることだけなのである。

では変わらないでもらうためにできることは?

ない。
あるといえばあるが、それこそ彼の時間を止めることだ。すなわち、息の根を止める。
そうすれば彼の肉体が変化しようと、彼がこれまでくれた様々な愛の言葉や仕草や態度は、永遠が保証される。更新されることはないが、変わることはない。

人は、変わることが怖いのだろうな。

嫌なやつのこういうところが変わってくれたら付き合いやすいのに、なんて思うことはよくあるのに、好きな人に限っては変わってほしくない。

そのくせ結婚すれば、こんな人だと思わなかった、もっといい旦那、いい父親に変わってほしいと願う。

人の欲なんてこんなもんね。

追記2023/08/01
過去に読書レビューサイト『シミルボン』にてピックアップされた記事です。

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