キリスト教支配と男色の歴史
1549年に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは日本人の国民性自体は称賛していたものの、庶民から僧侶に至るまで男色しているのだけはどうしても理解できなかったと言われている。キリスト教圏では男色は「自然に反する最悪の罪」とされ、ソドミー(神に滅ぼされた街ソドムに由来)とも言われ、ジャンヌダルクが火炙りで処刑されたのも「男装したから」が一因とされている。日本では日本書紀にも「善友(うるわしきとも)」記述があるように古代から男色の文化があり、庶民も当然のものとして考えていたから、ザビエルが当時の山口で「男色は罪だ!」と説教しても逆に笑いものにされるだけだったらしい。
ザビエルは僧侶が稚児(元服前のまだ前髪のある少年)と男色しているのを「堕落だ!」と強く非難したとされている。仏教では女性を不浄とし、女性との交わりを断つ女犯(にょぼん)という戒律があったため、必然的に男色に向かいやすく、奈良時代以降、僧侶に読み書きを教わったり身の回りの世話をする稚児が主に性の対象であったとされている。もちろん仏教自体が男色を容認していたわけでは必ずしもなく、悪見処(地獄)に落ちるともされ、支那・朝鮮では忌避されてきたようでもある。ところが稚児灌頂という儀式(頭に水を注ぐ儀式)を行うことでその稚児は観音菩薩の化身となり、その稚児と交わることは戒律を破ることにはならず、むしろ悟りへの近道であるとすら考えられていた。
激怒したザビエルは山口の大名、大内義隆と謁見し日本人の男色について「豚よりもけがらわしく、犬や道理をわきまえない禽獣よりも下劣である!」と訴えるが、自身も男色していた大内の怒りを逆に買うことになる。自分たちの文化をグローバルスタンダードだとし、それにそぐわない文化は野蛮だとする野蛮さはザビエルの時代から今日まで何も変わっていない。
キリスト教は多神教の日本人と合わないから広がらなかった面もあろうが、性の価値が合わなすぎることも一因となり(明治期には日本人自らがその価値に迎合することになったが)当時は庶民一般にまで広がることはなかった。西欧の植民地主義はまずキリスト教を布教させ、その土地の民を懐柔してから軍隊が乗り込んで侵略する、というやり方が一般的だったから、日本の男色はある意味西欧侵略の防波堤になっていたと見ることもできる。ザビエルが来たのが鹿児島や山口など武士が多く男色が盛んな土地ではなく、北陸や東北など農民の多い土地であったなら、色々歴史は変わっていたかもしれない。
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